子どもたちのこと

 「お母さんのことを一番分かっているのは、お姉ちゃんかもしれないけど、おれが一番、お母さんのことを“想って”いるんだよ。」

 長男が、小学校の高学年のある日、私と長女の会話に入ってきて、こう主張しました。

 そのときは、長女と女同士の共感で、「さすが、分かってくれているんだね。」などという会話をしていたと思います。

 そんな姿に、やきもちを妬いたのかもしれません。

 はて…。私は、こんな“大告白”に、何と返したのだったか…。

 とうに成人し、毎日、仕事に明け暮れている長男も、こんなときがあったことなど忘れてしまっているでしょう。

 あの日の健気な“想い”もまた、心の中で、優先順位の下の方に埋もれているに違いありません。

 それでも昨日、雪予報を警戒して、朝、職場まで送り届けてくれました。

「帰りは公共交通機関で…。」と、覚悟していたのに、退勤時間を合わせて、迎えに来てくれました。

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 子どもが三人もいると、頼み事をしやすい子が一人はいるものだ。我が家の場合、それは長男。

 長女のように言葉巧みに逃げる器用さもなく、末の息子のように頼りなくもない。

 そうやって「お願い」を重ねているうちに、いつの間にかいろいろなことを覚えて、「困ったときに頼りになる奴」に育ってくれた。

 中でも特に進んで手伝ってくれるのはカレー作り。

 「堂々と刃物が使えるから。」とは、それらしい理由だが、実はそれだけではない。

 その日も、大きめに切った肉を炒めるとき、さりげないアイコンタクトを取り合いながら長男がガスコンロの前に立った。

 程よく肉に焦げ目がつき、いい匂いが立ち込めた頃に、私はそっと箸を手渡そうとした。いつもの、“つまみ食い”用の…。

 すると、その日は何も言わずに首を横に振り、ニヤッとしながらポケットからつまようじを取り出した。そしてそれで、おそらく炒めながら目星をつけておいたのであろう、中でも大きめの一切れを突き刺し、パクっと頬張った。

 熱さでしばらくあふあふしていたが、そのうちに、その顔はみるみる笑顔になる。私が目で「おいしい?」と合図を送ると、笑顔のまま首を大きく縦に振る。私もまた、この瞬間を毎回楽しみにしているのだ。

 カレーを作るたびに、台所でこんなやり取りがあることを他の二人は知らない。ときには損な役回りを引き受けてもらっている感謝の印として、ささやかな秘密を共有する楽しみがあってもいい。

 それにしても、つまようじ持参とは、要領が良くなったものだ。

 お人好しで「イヤ」と言うのが苦手。

 生きるのに不器用なのではと心配したが、決してそうではないかもしれない。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

頼んだら、張り切って描いてくれました。本の挿し絵になるとは思ってもみなかったことでしょう。そして、今でも知りません…

子どもたちのこと2004年エッセイ集より 歳時記

 暑い夏の日の午後、頬に汗を伝わせて子どもが帰って来た。

「かき氷が食べたい。」

の声に、台所の隅からかき氷器を持ち出す。

 白く眩しく削げ落ちてくる氷には、「削り氷」という名がふさわしいと思いながら、手を休めることなく削り続ける。驚くほどに顔を近づけて、嬉しそうに待っている笑顔の期待に応えなければならないから。

 器に山盛りになった「削り氷」に自分で青いシロップをかけて食べ始めた。ひと口ほおばると、その口は真一文字から、みるみる両端が上がっていく。

 ただかき氷器のハンドルを回しただけなのに、その顔を見ていると、親として子どもの幸せのために大きな尽力をした気分になってくる。

 「削り氷」は、清少納言の「枕草子」にも出てくるように、もう千年も前からあった文化らしい。ただ、当時は、今のように一般庶民の食べ物ではなかったと聞いた。

 暑い夏に、子どもの体を心地よく冷やしてあげたいと思うのは、今も昔も変わらない親の願いだろうに。

 暑いと言えば、涼ませてあげたい。

 寒いと言えば、温めてあげたい。

 「お腹が減った。」と言えば、お腹いっぱい食べさせてあげたい。

 親が子に願うのは、そのくらいの幸せを喜ぶ笑顔だけで十分なはず。

 なのについ、もっともっとと、いろんなことを願ってしまうのは、そんな小さな願いが簡単に叶うようになってしまったからなのかな。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました