子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 末の息子は背伸びをする。

 三つ上の兄と対等に渡り合いたくて。

 並外れた運動神経。アイデアあふれる創作力。当然のことながら、いつも遥か上を行く姿を見上げて、悔し涙を流す。

「全能なる兄」を目標にするあまり、運動面で同学年の友だちよりも優っているのに、決して満足していない。図工の時間に作った「傑作」を持ち帰ったときも、兄の反応が気になってしょうがない。

 そんな兄は、実は机の上での勉強が大の苦手で、「自分には向いていない。」と半ば諦めている。

 弟として、もちろん気づいてるようだが、それは取るに足らないことらしい。


 末の子の背伸びは情報収集にも向けられる。

 新聞や雑誌の広告から、先に新しい情報を見つけて兄に知らせたい。

「おお。」と驚いてもらえると大満足。

 ある日、靴屋のチラシを見ながら、

「見て!200円の靴だ!」

 長男はチラシを覗き込み、

「それは、200円引きだろう。」

 200円分のクーポン券付きのチラシだった。

 間もなくまた、

「あっ、これは2400円引きだ!」

 長男はちらりと目をやり、

「……。」

 もちろん、2400円の靴だった。


 こうして、末の息子の背伸びは今日も続く。

 自分が兄と対等だと、自らが納得できるその日まで。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

 10年後、末っ子は身長だけは兄を追い越しました。

 それでも、気持ちは相変わらず兄を見上げたままです。

 身長の話になると、少しだけ誇らしい表情になり、兄は苦笑いをしています。

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 この春、三人の子どもたちそれぞれにクラス替えがあった。この地に引っ越して来てまだ半年。ここでまた、新たな友だち関係を作り直すのは酷だなと心配していたが、どの子もあっさりと受け入れているところがすごい。

 中でも、中二になった長女。始業式の夕方にすがすがしい顔で帰って来たので、

「クラス替え、どうだった?」ときくと、

「部活で仲良しの五人は、きれいに一組から五組に一人ずつ分かれたの。クラスで一番仲が良かった友だちも隣のクラスなんだよ。」

がっかりする内容を、実にさらりと言った後に、

「でも、平気だよ。このクラスでだって新しく友だちはできるから。今日だって、もう何人かと話して親しくなったもん。」

「部活の友だちと、『せっかく違うクラスになったんだから、同じ委員になって一緒に仕事をしよう。』って相談したんだよ。」

「はぁ…。」と言葉を失っている私に、

「私たち、前向きでしょ。」と、にっこり。

 いつのまにか、こんなにたくましくなっていたのか…。


 いわゆる“転勤族”で、引越し、転校を繰り返して来た。小学校には三校通い、中学校は二校目。その度に、仲良しの友だちに泣く泣く別れを言い、新しい学校では一人でぽつんとしていたことも何度かあったという。

 そんな経験からなのだろう。転校して来た子や、友だちに馴染めずにいる子に、とても優しいと聞いていた。


 幼いうちから、そこまでの“修行”を積んだ者にはとても敵わない。

 たくましさにはかなり自信があった私だが、我が子ながら尊敬してしまった。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 末の息子の手を引いて、近くの駅に向かう。息子はうつむき加減に歩き、ときどき立ち止まって、

「お母さんも一緒に行ってほしかった。」とぐずる。

 私たちはそれぞれ逆の方向行きの電車に乗るのだ。

 都会から外れた小さな駅に、人が行き交う喧騒はなく、近くで踏切の音が鳴り始めると、たった一日だけの予定には不釣り合いなほどに、その響きが旅愁を誘う。物憂げな空気が流れ始める。

 この休日はどうしても家族の予定が合わず、ひとりぼっちになる末の子は、知人の家でみんなの帰りを待つことになった。

 先方は三つ先の駅まで迎えに来てくれている。そのたった三駅分の「冒険」が不安でたまらないのだった。「末に生まれし」子への情けが、これほどまでの甘えっ子を育ててしまった。

 電車は私たちの前をゆっくりと流れ、ちょうど最後尾の扉が目の前に来たときに止まった。息子の背中を押しながら、車掌さんに一言お願いをする。

 目の前の扉が開かれたことで観念したのか、息子は吸い込まれるように乗り込んだ。そして、入り口に一番近いシートに腰をおろすと、不安そうな笑顔をこちらに向けた。

「平気だよ。」と、私が向けた笑顔の合図は、間もなく扉に阻まれて、ごとんという音とともに、静かに電車は動き出した。

 窓の向こうで、息子はまだこちらを見ていたが、遠ざかるにつれ、窓に景色が反射して、あっという間に見えなくなった。

 二人の間で柔らかにまとわりつき合っていた糸がみるみる細くなり、すっと消えた気がして、心細いような、わずかな自由を手にしたような複雑な感覚が残った。


 夜、それぞれの予定を終えてみんなが集まる。

 再び、私の周りに糸たちがふわふわとまとわりつき出す。

 新鮮な気持ちで糸と戯れ合いながら、あの細くなって消えた感覚も忘れないでおこうと、小さく覚悟した。

本文とは関係ありませんが、あまりにもきれいで…

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました