子どもの頃のこと2004年エッセイ集より

 拾い集めた落穂を握りしめたまま顔を上げると、太陽がすっかり沈んだ西の空は済みやかな赤色に染まっていた。


 稲束を干し終えた稲架(はさ)に沿って歩き、落ちている穂を拾って、ひと握りになると十円のお駄賃がもらえた。それが貯金箱に貯まっていくのが楽しみで、秋には学校から帰るとすぐに田んぼへ向かった。

 一番上に稲を掛けるときには、大人でも脚立を使うほどの高さがある稲架。それが、全ての田んぼの端に次々とでき上がる。そこが私の、毎秋の仕事場だった。


 秋の夕暮れは、日が沈むとみるみるうちに暗くなる。ひんやりとした空気がふっと頬をかすめ、足下もよく見えないくらいに暗くなっていることに初めて気づく。ぶるっと身震いをしながら顔を上げると、そこにはいつも、夕焼け空が美しく広がっていたのだった。

 両親も祖父母も、もう近くにはいない。隣の田んぼから聞こえて来る稲刈り機の音がとても遠く感じて、今日はもうおしまいにしようと思った。

 私の手には、夢中で拾い続けた落穂がひと握りになっている。少し誇らしい気持ちでそれを見つめた。せっかく実ったのに、拾われなければ土に還るしかないのだ。ひと夏かけて育てて来たのだから、誰かのお腹を満たしてこそ、その価値があると信じていた。



 以前、記録的な冷夏で「平成の米騒動」という言葉ができた年があった。輸入米が市場に出回り、国産米を求める声が高まる中で、私の脳裏にはいつにもましてこの光景が鮮やかに蘇っていた。一粒も無駄にしたくないと思ったあの時の願いが、全ての人の心に届くような気がした。不謹慎にも、安堵の念さえ憶えたのだった。


 今、コンバインで刈り取られる稲は、もう干されることはない。稲刈りの済んだ田んぼは真っ平らで、稲架も姿を消してしまった。落穂拾いの子どもの仕事場もなくなってしまった。

 また、さまざまな教訓と対応の中で、もう“米騒動”は起こらないだろうと言われるようにもなった。

 それでもなお、私の心にはどうしても流れていかない風景がある。

 稲架の下で、落穂を握った女の子が、秋の夕暮れを心細げに見つめている。「この風景をいつまでも覚えていよう。」と決めている。

 おじいちゃん、おばあちゃんになった父母が、ひと夏かけてようやく実らせたお米の大切さと、私たちの元にたどり着くまでの道のりの尊さを、自分の子どもたちに伝えるために。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 小学生だったある日、長男は親友ともいえる友達とけんかをして帰って来た。我が家の末の次男も含めてサッカーをしていて、その友だちの蹴ったボールが弟の腹に当たり、謝れだのどうのともめたあげくに言い合いになったらしい。

 二人は神妙な面もちで帰って来た。いつもと違う様子に気づいてたずねると、長男が事のいきさつをぽつりぽつりと話し始めた。

 痛さと驚きで泣き出した弟の涙は、お互いに多少のことは大目に見ようと、大らかに付き合ってきた友だちとの仲でも、妥協することを許さなかったようだ。

 帰ってからずっと黙ってうつむいていた末っ子が、我慢していた涙をぽろぽろとこぼし始める。この子なりに、兄に大事な友だちとけんかさせてしまったことを、申し訳なく思っていたのか。

 高学年といえども、小学生男子の関係とは単純なもので、彼らの友情はすぐに復活し、その出来事は間もなく忘れ去られた。

 ただ、友だちよりも兄としての正義を選び、弟をかばった長男の優しさは、みんなの心に刻まれた。


 ふと、ずっと以前にも、こんなきゅんとなる感覚をもったことがあったと思い出してみる。


 あれは、長男がまだ幼稚園に通っていた冬だ。その日は長女が小学校から戻るのが早くて、長男を車で迎えに行くのに珍しく同行した。間もなく、子どもたちが園舎から出て来たので連れ帰ろうとすると、冬の恒例として、戯れの雪合戦が始まった。

 初めのうち、雪玉はただ乱れ飛んでいたが、いつの間にか、男の子の中のリーダーで、当時長男の一番の仲良しだった子の合図により、長男一人が狙われてぶつけられるという形勢になっていた。

 子どもは悪ふざけが過ぎて、そんな残酷なことをすることがある。だが、こんな仕打ちをされる理由に、全く覚えのない長男にはひどくショックな出来事だったろう。

 半べそをかいている長男を車に乗せて帰る途中、それ以上のショックと怒りを隠せない様子だったのは長女だった。

「今まであんなに仲良く遊んでいたのに…。」

「もう、あの子は遊びに来なくてもいい…。」

 家までの5分ほど、独り言のようにつぶやき続けた。

 車を停め、降りて家に向かう。後部座席の長女は降りようとせずに、探し物でもしている様子だった。

「早くおいで。」と声をかけようとして振り返ると、座った身をさらに低く屈めたまま、こっそりと涙を拭っていた。


 きょうだいとは不思議なものだ。普段はけんかばかりして、自分が相手を泣かせるのは平気なくせに、こんな風に、他人に涙を流させられるのは許せない。

 そして、長男のように相手に立ち向かって行くこともあれば、長女のように、何もできなくても、陰でこっそり胸を痛めている。

 どちらにも言えるのは、そのとき同じ痛みを感じているということなのだろう。


「自分には、痛みや悲しみをいつも一緒に担ってくれた仲間がいる。」

 こんなささやかな思い出が、生きていく勇気の一つになりますようにと願っている。

おもしろトマトを発見❗️

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

「なるほどなぁ、と思いましたよ。」

 長男が小学校に上がった春の家庭訪問で、担任になった朗らかな先生はそう言って笑った。


 ひらがなの学習に入ったばかりの国語の時間に、一番最初の「つ」の字を、プリントで練習したときのこと。プリントの前半には「つ」を何度か書く欄があり、後半には「つ」のつく言葉を考えて書くために、三〜四文字分の空マスが連なったものがいくつか並んでいた。

 ほとんどの子どもたちは、「つ」を練習した後、思い思いに後半の課題に取り組んでいたが、ふと見るとうちの息子のプリントは、前半は済んでいるが後半には手がつけられていなかった。

「ここには『つ』のつく言葉を書くんだよ。考えてごらん、『つ』で始まる言葉はないかい?」

 先生がそう話しかけると、

「でも、先生、ぼくは『つ』っていう字は、今教えてもらったから分かるけど、ほかの字はまだ習ってないから分からないよ。」

 平然と、そう言ってのけたというのだ。


 長男の通った幼稚園は、当時では珍しく「勉強の時間」がなかった。それでも同年代の子どもたちは、みなそれぞれにひらがなの読み書きを身につけており、中には漢字を書ける友達さえもいた。なのに、我が息子は全く焦っていなかった。

「字は学校へ行ったら勉強するよ。」

「自分の名前が書けるからいいよ。」

 そう言って、必要最小限のスキルを持って入学したのだった。


 先生は続ける。

「最近は、ほとんどの子どもたちがひらがなをマスターして小学校に上がって来ますから、いつの間にかそれが当たり前みたいになっていましたよ。」

 そして、嬉しいことも言ってくれた。

「覚えていないことは、これから覚えればいいんです。それよりも彼のように、もじもじせずに、自分の状況をはっきりと伝えられることが大切なんです。」

 こんな大らかな先生の下で、長男は伸び伸びと小学校低学年の時代を過ごした。


 それから数年…。引っ越しで環境は変わったが、学校が好きで、友達を作るのが上手なのは相変わらずだ。

 勉強が好きになれないのも相変わらずだが、テストの点数が悪くても、動揺する様子はない。学期末に成績が下がったとしても、さほど大きな問題ではないらしい。

「君には君の良さがあるよ。」

 そう言い続けてくれた人を、きっと今でも信じている。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」より

※加筆しました。