日々のあれこれ導いてくれた歌

年度の初めはいつも忙しくて、気付くと「とっちらかした」生活をしている。
一つの仕事が終わらないうちに次々と新しい課題が横から差し挟まれ、そらに気を取られていると順調だった仕事までこじれてしまう。
時間はいくらあっても足りない。
集中力が続かない。気持ちがすさんでくる。

当然、生活も乱れてくる。
夕食は、スーパーのお弁当、フランチャイズ店の持ち帰り弁当、チェーン店の丼物…。そのローテーション。
どこか、いつも焦っている。
「早く、速く…。」といつも考えている。

そんな生活に嫌気がさしたときに、いつも思い出す短歌がある。
ずいぶん前に新聞の歌壇に載った。
下の句が、「ちいさきいのちは ていねいに生きる」
上の句は、はっきりとは思い出せないのだが、生まれたばかりの子が、乳を飲んで眠って…を繰り返すだけの日々の愛おしさを歌った、若いお母さんが詠んだ一首だった。

私にとって一番大切なことは何だったかな。
今、私は自分を大切にしているかな。
守ろうと思っていたものを、ちゃんと守れているかな。

仕事の量が減るわけではないけれど、その基本に立ち返ると、不思議と心に余裕がもてるようになる。
「とっちらかって」いた雑事に、冷静に優先順位をつけられるようになる。
fast foodから、slow foodに気持ちがシフトしてくる。

愛情あふれるお母さんのお子さんは、きっと健やかに育って、ずいぶん大きくなったことでしょう。
あなたが生み出した歌もまた、こうして見知らぬ人の心に残っています。
そして、きっと多くの人の心の支えになっていますよ。

マイルドセブンの丘…。もう、防風林ではなくなりました。

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 末の息子は背伸びをする。

 三つ上の兄と対等に渡り合いたくて。

 並外れた運動神経。アイデアあふれる創作力。当然のことながら、いつも遥か上を行く姿を見上げて、悔し涙を流す。

「全能なる兄」を目標にするあまり、運動面で同学年の友だちよりも優っているのに、決して満足していない。図工の時間に作った「傑作」を持ち帰ったときも、兄の反応が気になってしょうがない。

 そんな兄は、実は机の上での勉強が大の苦手で、「自分には向いていない。」と半ば諦めている。

 弟として、もちろん気づいてるようだが、それは取るに足らないことらしい。


 末の子の背伸びは情報収集にも向けられる。

 新聞や雑誌の広告から、先に新しい情報を見つけて兄に知らせたい。

「おお。」と驚いてもらえると大満足。

 ある日、靴屋のチラシを見ながら、

「見て!200円の靴だ!」

 長男はチラシを覗き込み、

「それは、200円引きだろう。」

 200円分のクーポン券付きのチラシだった。

 間もなくまた、

「あっ、これは2400円引きだ!」

 長男はちらりと目をやり、

「……。」

 もちろん、2400円の靴だった。


 こうして、末の息子の背伸びは今日も続く。

 自分が兄と対等だと、自らが納得できるその日まで。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

 10年後、末っ子は身長だけは兄を追い越しました。

 それでも、気持ちは相変わらず兄を見上げたままです。

 身長の話になると、少しだけ誇らしい表情になり、兄は苦笑いをしています。

子どもの頃のこと2004年エッセイ集より,母の一世紀

 母の背に負われて橋を渡った。

 田んぼのあぜ道を歩き、用水路を越えようとしたとき、そこには幅の狭い板が渡してあるだけだった。母は先に渡ってしまい、手まねきをしていたが、私は怖くて前に進めなかった。

 母は戻って来て私を負ぶってくれた。私はぎゅっと目を閉じ、板がきしむ音に怯えて母の背にしがみついた。

 あれはまだ、小学校に上がる前だ。


 すっかり忘れていたそのことを思い出したのは、20年経ってから。自分が娘を負ぶって橋を渡ったときだった。

 二番目の子どもを産むために、実家でしばらく過ごしていた。二人で田んぼのあぜ道を散歩していて、やはり用水路を越えようとしたときだった。小さな娘は、身重の私の背中にしっかりとしがみついていた。

 しかし、私が子どもの頃に母の背の上で渡った橋はここではない。あれは、母の実家の近くの風景だ。

 母はそんな風に突然実家に戻ることがあったのだ。


 孫の私にとってさえも、祖母は厳しかった。母が何度となく傷つき泣いたことを知ったのはずっと後だった。

 思い余って就学前の私の手を引いて実家に向かう。学校に行っている姉たちのことが気がかりで、夕方にはあの家に帰らなければならないと思いながら…。

 あの頃の母は、今の私よりも若かったはずなのに、私が幼かったせいか、その苦労のせいか、ずっと落ち着いた、やや影のある印象がある。


 あのとき何も話さなかった母の背中は、その日から私の心の中で優しく揺れ続けた。そして、いつの間にか、

「お前はこんな思いはするな。」

「お前は幸せになるんだよ。」

 そう語っていたんだと思うようになった。

 背中に自分の子どもの重さと温かさを感じながら、記憶の中の橋と母の背中に、私はせき立てられた。

「何としても、幸せにならなくちゃ。」

 幸せを願ってくれる人の思いに、応えなくてはと。


 しかし、こうして一時はがむしゃらに願った「幸せ」の答えは、実はとても簡単だった。

 身の回りで起こる良いことも悪いことも、全て自分の中で小さな幸せに変えられると気づいたから。

 幸せとは、全力でつかみ取るようなものではなく、辛いときでも、傍らで子どもが無邪気に遊んでいれば、その中にさえも見出すことができるものだと分かったから。

 だから、あの頃の母もまた、自分の悲しみだけを見つめていたのでは、決してないと信じている。


 子どもたちが大きくなり、今、私の背中で揺れてくれる子はいなくなってしまった。

 でも、それぞれの心のどこかに、私の背中が揺れ続けているといいのにな…と思う。

 その背中にはいつも、

「幸せを見つけられる人になるんだよ。」

という願いを込めておいたのだから。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました