日々のあれこれ歳時記,母の一世紀

 「昔から、『冬至十日前』って言われたもんだけど、本当なんだね」

 冬のある朝、母がそう言った

 当時、私は小学生だったと思う

 当然、インターネットなんか無かった頃だから、母の情報源は、テレビから数秒間流れる「日の出、日の入り情報」

 それを、毎日カレンダーに書き込んで、確かめたのだという

 そのときの母は、日付けと時刻、何分間日足が伸びたかを、細々と、嬉しそうに話していたなぁ

 ふと気になったことを、追求したくなっちゃう

 そうか… 私のこれは、遺伝なんだな

 インターネットがある時代に、新聞を切り抜いて資料を作りたくなっちゃった私の作品がこちら→→太陽の誕生日

子どもの頃のこと母の一世紀

 「おまえはもう、どこにもやらんからな」

 背中に負ぶった母をなだめるように、そう言い聞かせながら、祖母は田舎道を歩いた

 母の思い出の中でも、指折りの幸せな時間だった

 父親を、小学4年生で亡くした母たちは、その実家のある地域に、親戚を頼って移り住んだ

 祖母が一人で、子ども8人を抱えての生活は困窮し、伯父の家に養女として出されたのが母だった

 農作業の力になる兄や姉たち  まだ幼かった妹や弟

 母が選ばれたのは、やむを得ない状況だったか

 その家での生活は辛いものだったという

 朝早くから、家事や炊事をこなす

 それでも、登校前に玄関の掃除を済ませなければならない

 終わったと思ってもダメ出しされ、やり直す

 毎日遅刻して、先生に叱られる

 あるとき、事情を知った先生が、「これからは、どんなに遅刻してもいいですよ」と言ってくれたほどだったそうだ

 帰ってからも、畑や田んぼの仕事だと言ってこき使われ、精神的にも追い詰められ続けた母の心は、徐々に病んでいった

 ある日訪ねてきた親戚が、母の様子を見て「このままでは、この子がダメになる」と進言し、連れ戻されることになった、ということだった

 あのとき、母の幸せを、何よりも願っていただろう祖母も、母が中学2年生のときに、成人する姿を見ることもなく旅立った

 その後、辛い結婚をしたことも、後妻に入った家で苦労もあったけど、優しい夫に恵まれたことも、どこかでそっと見ていたのかな

 その伯母の訃報に接したときに、母はお悔やみに顔を出すことさえ拒んだのを覚えている

 何十年経っていても、子どもの頃に受けた心の傷は癒えることがないのだと思った

 ただ、母の家事のスキルや、農作業の手際の良さ

 法事等で、大人数を受け入れて切り盛りする甲斐性などは、このとき身につけたんじゃないかな…と思っている

 本人には絶対言わないんだけど

私にも、幼い頃、母に負われて、田舎道を歩いた思い出があります

大人になっても忘れることのない、優しい背中…

こちらも、いかがですか  

日々のあれこれ母の一世紀

 ある日、父が言った

 「母さんには、前の旦那のところに残してきた子どもがいて、まだその子のことを気にかけているんだろう もしかしたら、父さんの知らないところで、連絡を取り合っているのかもしれない」

 一般的な家庭に見えても、それぞれの事情を抱えているもの

 以前から書いてきたように、父が再婚なのは小さい頃に知ることになったのだが、母にもそんな過去があったのか…

 隠していたようでもなかったので、私が成人してしばらく経ったこの日まで、触れる必要もなかったのだろう

 どんなきっかけだったか忘れたが、そう話した父は寂しそうだった

 後に母から聞くことになった

 初めの結婚は辛いものだったこと

 夫から毎日のように暴力を受けたこと

 男の子が生まれたが、連れて出ることができずに、その家に置いてきたこと

 そしてその子は、幼いうちに亡くなったと、知らされていたこと

 ここに来たときは、抱くこともできない我が子を思いながら、ねえちゃんを育ててきたのかな… 切なさが込み上げる

 センチメンタルにそんなことを思っている私とは裏腹に、母はどこか吹っ切れているように、遠い思い出話として話した

 あんなに仲がいいのに

 毎日、一緒にいたのに

 それを話すことなく、過ごしてきたのか

 心の奥にある柔らかい部分

 そこに触れない父の優しさに守られて、母の痛みは、ぶり返すことなく癒えていったのかな

 あるとき思ひ立ちて… (「仁和寺にある法師」を思い浮かべた方 正解です!)

 母が歩んできた道をまとめてみようと思いました

 北海道の里山に住む、一人のおばあさんの人生に関心を抱かれた方がいらっしゃいましたら、新しい風 から遡りながら、“母の一世紀”というタグのついた文をお読みください