日々のあれこれたどり着いた視点

 「若者たちが、『◯◯させていただきます』というのは、媚びではないか」という内容の文を、新聞の投稿欄で読んだことがあった

 それから数日後、その投稿への反応として、「謙虚なのは良いことではないですか 私は毎日『今日も生かして頂いている』と感謝しながら生活しています」という文が載った 

 投稿者は80代の方で、人生経験から来る謙虚な姿勢と発言には重みがある

 とは言っても、問題になっている言葉は、謙虚さから出るものとはどうしても思えなかった

 私も前者のように「◯◯させていただきます」を苦々しい気持ちで聞いている派で、その根底にある心理を“逃げ”だと思っている

 しかも、実体験が元になっている

 ずっと以前の職場で、ささやかな昼食会を開いたことがあった

 年齢が上の先輩や上司もいる中、たまたまの巡り合わせで私が司会を務めた

 食事が終了し、紹介や歓談などひと通りの予定を終えて、時間も頃合いなので閉式のタイミングに

 そのとき、司会として「これで、昼食会を終了いたします」と、すんなり言えなかった…!

 目上の面々を前に、自分が決定して“終わらせる”ことに謎の重圧を感じ、やんわりと責任の所在をぼやかしたくなった

 口をついて出た言葉が「終わらせていただきます」

 『私はあくまでも、皆さんにこの役をさせてもらっているだけです』『私に決定権などないのです』と言わんばかりに…

 数日間、自己嫌悪に陥った

 誰も異議を唱えるはずなどなかったのに

 食事に行って、料理を運んできた店員さんが

 「こちらの方、ハンバーグセットになります」という

 まるで、「厨房でそう言われました 自分はただ持ってきただけです」とでもいうように

 まさしく頼んだ料理だし、見た目だってメニューの写真とほぼ同じなんだから、文句を言う人はいないだろう

 「お待たせしました ハンバーグセットです」と断言してくれた方が耳触りがいいのにな、と思う

 私には、自分が決定すること、断言することからやんわりと逃げているように聞こえるこれらの言葉

 他の人たちは、どんな気持ちで聞いているんだろう

 最近、“たどり着いた視点”のタグをつけた文では、毒を吐きがちです

 それなりに長く生きてしまった者の愚痴だと思って、大らかに読んでください

 いよいよ蕾が出てきたカポックの花の成長ぶりを、懺悔のつもりでつけて添付します

枝分かれした芽の一つひとつから、花の蕾が出始めました

日々のあれこれ歳時記

 植物を育てるのが上手い人は、「緑の手」を持つと聞いたことがあり、観葉植物をはじめとして、1年中ベランダで、何かしらの植物を育てている私は、一種の憧れのようなものを感じてきました

 「どんなことをしても、よく育つ」「植物と対話ができる」など、人知を超えた能力をもっているみたいで、羨ましい限りです

 そんな私に、「少しの間、緑の手気分を味わえる時季」がやってきました

 アマリリスが花盛りです

 2月頃に球根を掘り返して、古い根を掻き落とし、新しい土に植え直すだけ ひと手間ですが、その努力に余りあるほどの、大きな立派な花が咲きます

 脇芽が出るたびにそれを移植して増やしたので、5株ありますが、今年は、そのうち2株も2本ずつの花芽を伸ばしました

 朱色の花が、ほぼ一斉に咲くのを眺めるのは壮観で、この時ばかりは、自分も「緑の手」を持っているのかもしれないと、自惚れてしまいます

手前右の花は、残念ながら盛りを過ぎてしまいました

 カポックも着々と開花に向かっていますし、増え続けるキンセイマルにも、気づくと花芽が3つも出ていました 今年の「緑の手」期間は意外と長なるのかも…

1週間で、さらに開きました
動物の耳風な、可愛い位置の花芽です
調子に乗って、コキアも育ててみることにしました

日々のあれこれたどり着いた視点

 平面上で指を動かすだけで、ほとんどのことが調べられる。

 既知、未知を問わず沢山の人とコミュニケーションが取れる。

 ぼんやりする時間など作らないほどに、数えきれない娯楽を与えてくれる。

 これだけで、何のことを言っているのか分かります。

 その有用性についても、弊害についても、それこそ少し調べればいくらでも情報が得られます。

 その中にあるのか、ないのか、調べてもいませんが、世の中の“謙虚”や“感謝”の概念が何となく薄まっているように感じます。

 そのツールを使いこなしたことで、自分には特別な才能があると思い込んでしまう。

 指一本で、強大な敵を打ち倒す破壊力を得たつもりになる。

 その分野で遅れを取った人たちを、侮ったり蔑んだりして、優越感に浸ろうとする。

 小学生以下の小さな子どもから、いい大人まで、たった今、自分の身の周りで起きている現実を正しく認識することに、無頓着になってはいないでしょうか。

 技術を駆使して敵を倒したのかもしれませんが、そのゲームを開発した人たちと、みんなで遊ぶために配信できるようにした人たちが素晴らしいのです。

 インターネットで注文した食事にも、それを調理した人と届けてくれた人がいるのです。また、そのシステムを構築した天才的な人たちがいるのです。

 私たちの多くは、誰かの多大なる才能と努力の恩恵を受けているだけの、その他大勢の凡人なのです。

 もの心ついたときからそんな環境が出来上がっている子どもたちに、こうした事実と、それに向き合うときの“謙虚”と“感謝”を正しく教えるのは、私たち大人の急務ではないでしょうか。

GWは、久しぶりに千葉県へフェリーで渡り、海沿いを散策しました