日々のあれこれ2004年エッセイ集より

 靴の中には秘密が隠れている。

 靴の持ち主さえも多分それに気付いていない。

 そして、それらの秘密は誰にも気付かれることなく、履き古された靴と一緒に捨てられるのが常で、知らないまま過ぎ去って行く平穏の方が、むしろ歓迎すべきなのかもしれない。


 先日、小学校の高学年になった長男の運動靴を洗った。

「自分の靴くらい自分で洗いなさい。」

と言うくせに、その仕事ぶりに満足できない私は、つい手を出してしまう。

 子どもたちが小さかった頃は、おもちゃでも洗うように気軽に洗っていたものだが、最近ではすっかり大仕事になった。

 ブラシで表面の汚れを落としてから、勇気を出して靴の中に手を突っ込んだ。水につける前に中に溜まっているゴミをかき出そうとしたが、どこから湧くのか、砂がバラバラと落ち続けてらちがあかなかった。いつも泥だらけになっている靴下から考えて、覚悟はできていたが…。


 汚れもさることながら、驚いたのはその深さだった。手首まですっぽりと入れても、つま先はまだ遠かった。

 それが何故か息子の心の奥行きに重なって、無神経にもそこに手を突っ込んでいるような気分になった。誰に見られることなく、触れられることもなかった部分…。一瞬とは言え、後ろめたさまで感じた。

 気を取り直して、残った汚れはないかとまさぐってみる。つま先の、指が当たる部分が凸凹している。

 力いっぱい踏みしめる指。

 グランドで歯を食いしばって走る横顔がよぎっていった。

 靴と中敷きの隙間に小石が挟まっていた。痛くなかったのかと呆れながらも、そんなことよりも、たった今目の前をかすめて行ったアゲハチョウを追うのが先決と、かけて行く後姿を思い浮かべ、ニヤリと笑ってしまった。


 そんなことをするうちに、気が付くとつま先がさっきよりもずっと近くなった気がした。

 最近、みるみる遠のいて見えていた息子が、少し近くに戻ったように思えたのは気のせいか。

 靴底の形が分かったところで、息子の心の中を把握できたわけではないのだけれども…。

 中のゴミをきれいにかき出したからといって、全ての環境を整えたことになるわけではないのだけれども…


 何度も水を替えて洗い、洗濯機で脱水した。干す前に形を整えようとトントンと叩いたら、またしてもパラパラと砂がこぼれ落ちた。

 子どもたちがそれぞれに歩んで、世界を築いているのだ。こうでなくちゃいけないのだろう。ただ、その広さと奥行きに、少しだけ寂しさともどかしさを感じた。

  こんな発見お手のもの!

日々のあれこれ歳時記

思い出を文にしようとすると、ついつい冬のことが多くなってしまします。
でも、誰もが知っている通り、北海道には素晴らしい夏があります。
いつまでも肌寒くて実感が薄いけれど春もありますし、短いながらも秋もあります。
それでも、冬という季節の印象が強いのは、こちらでは体験できない寒さや、降雪への懐かしさかもしれません。

私にとって、冬は「感じ取る季節」でした。
ピリピリと痛いくらいに冷えた空気。風までも凍ったように何も動かず、静まり返っている朝の緊張感。
太陽の高度は低く、午後2時だというのに西に傾いて見えた寂しさ。
窓の外に降りしきる雪を眺めながら、ストーブの上で薬缶のお湯がしゅんしゅん鳴っているのを聞いて、家の中の暖かさに言いようのない幸せを感じた休日。

子どもの頃は、クリスマスやお正月が近づいてくる嬉しさで、家の中まで凍てつく日々が、赤や金色の宝物が近づいて来る合図のように感じていました。

今では、冷え込んだ朝に窓の外が白く見えてレースのカーテンを開けても、雪景色ということはほとんどありません。
でも、ピンと張りつめるような冷気のせいか、植物が朽ち始めた匂いのせいか、こちらに住んでいても
「冬が来るんだなぁ。」
と感じる瞬間はたくさんあり、やはり冬は「感じ取る季節」なのです。

日々のあれこれ歳時記

 初詣には二度行きました。その場合、二度目の方は初詣とは呼ばないのかもしれませんが…。

 近所に、遠方からも参拝者が来るような大きな神社があり、お札も頂いているので、そこが氏神様と言えるのでしょう。今年は、久しぶりに大吉のおみくじも頂きました。

 でも、本当に初の初詣は、いつもの散歩コースにある小さな祠でした。

 公園の一角にある私有地。傾きかけた鳥居の奥にひっそりと鎮座しています。忘れ去られているようで、節目ごとにお供物が上がっているところを見ると、誰かが大切に管理しているのでしょう。

 前を通るときにはいつも一礼します。立ち止まって手を合わせることはありませんが、素通りもしないことに決めています。


 以前、その公園の脇にある暗く寂しい坂道を、夜遅くに一人で歩いて帰らなければならないことがありました。

 不審者が出たという話の他に、いないはずの人を見たという怖い噂も多く、暗く吸い込まれるような下り坂に、意を決して進み入りました。

 ところが、いざ歩いてみると恐怖心を全く感じないのです。所々に灯っている街灯は決して明るいものではないのですが、ふんわりと気持ちを落ち着かせてくれました。

 五分ほどかけて九十九折りの坂道を下って降りたところに、その公園の入り口があります。その時に、ふといつも頭を下げている祠のことを思い出し、

「守ってもらえたのかなぁ。」と思いました。


 信仰とは縁遠いと思っていた父が、以前言ったことがありました。

 昔、暗く寂しい田舎道を歩いたときに、心細さもあり、怖くて仕方がなくなった。思わず、聞きかじっただけの念仏を唱えると、不思議に気持ちが落ち着き、無事に家に帰り着けた。


 信仰といえるほど、無心にそれを敬い続ける謙虚さはなくても、否定もせずに、ふとしたきっかけで感謝の気持ちをもてる。そんな柔軟な心が、日本人には受け継がれているのだと思います。

「今年もよろしくお願いします。」と、両方の神様に挨拶をし、穏やかに一年がスタートしました。

実りの多い一年ででありますように