日々のあれこれたどり着いた視点

 周囲を見回しても、テレビの報道番組を見ていても、なんだかみんな、自分の事情を語りすぎです。

 こんな時期ですから、何かしらの事情を抱え、折り合いをつけながら生活しているのはみんな同じです。

 その中で、「自分の事情は特別」とでも言うように、長々と話し、

「容赦してほしい。」

「配慮してほしい。」

「理解してほしい。」

「それは仕方がないですねと、承認してほしい。」

そんな言葉を口に出すことはないけれど、そう期待している人を何人も見ました。

 慎重に対応しなければならないケースはもちろんありますが、ほとんどは、大人が自分で判断して行動しているのですから、そんなに詳しく話してまで理解を得る必要がないことばかりです。

 観光地やスポーツ観戦に出かけて来た人に、報道関係者がマイクを向けます。

 決まり悪そうに答える一般市民は、それぞれの事情を語ります。

 念を押すように、文節ごとの語尾を上げて話す人は、言い訳のような印象を与えます。半疑問系を繰り返して話す人は、相手がその度に頷いてくれることで、安心したいのでしょう。

 大人なら、自分の決定にもっと自信や誇りをもっていいはずなのに。インタビューを受けたくないと、突っぱねるという選択肢だってあるのに。

 報道側も、見ている側が苦笑してしまうようなインタビューを、何のためにして、わざわざ全国に放送しているのでしょう。

 周囲に自分の事情を分かってほしいと願うのは、幼く、未熟な心理だと思うのは私だけでしょうか。

 むやみに周囲に理解を求めない。無責任な言葉に頼るより、自分の意向は自分で冷静に見極める。

 そんな「自己完結」の境地になれたなら…。

 まだやっと、そういうゴールがあることに気づいて、遠くにちらっと見たかなぁというところですが。

チングルマという高山植物。
不思議な花!と思ったら、咲き終わった後の姿でした。

日々のあれこれたどり着いた視点

 最近、「収納術」という言葉をよく耳にします。

 発想に感心してしまうアイデア製品や技術、見た目に可愛らしい小物など。

 自分で暮らしをコントロールして形づくるわけですから、毎日が楽しく、活力も湧いてきそうです。

 でも、この歳になると、思考は真っ直ぐそこへは向かいません。

「工夫しないと収まり切らないほどの物は持ちたくないな。」

 居間を見回します。

 殺風景でもないし、無駄な物が置かれていないとも言えませんが、気が向いたときには棚にも机にも必要な物が置けます。

 YouTubeを見て、いきなりストレッチをしようと思い立ったときに、寝転んで手足を伸ばしても困らない床スペースもあります。

 多いわけではない収納家具の中も平均して余裕があります。

 これらは、私が以前「物に振り回されない暮らしがしたい。」と強く願った時期があったことが影響しています。※

「呼ぶ声」参照

さらにそれに加えて、最近は、「そろそろ人生のたたみ方を考えておこうか。」という思いを、少しずつもち始めたのです。

 自分がいなくなった後、何人かの人の心には、良い思い出として残るのもいいな。

 でも、物理的にはできるだけ痕跡を残さないように、自然に溶け込むように消えて行きたいな。

 だとしても、体一つで生きて行くのは難しいから、捨て方や処分の仕方を考えて、物と付き合わなくちゃならないな。

 50代後半。幸い、丈夫で健康。まだ数年は現役で働けそうです。

 こんなことを考えるのは、定年を迎えてからでも良いのかもしれません。

 でも、頭も体もそこそこに動く今から準備を進めようとしている自分の計画性が、結構気に入っています。

日々のあれこれたどり着いた視点

 子どもたちを三人とも連れてこちらへ来ると決めたことは、周囲には当然、無茶と思われていました。

 中学生と、小学生が二人。

 義務教育中とはいえ、経済的負担は大きいと覚悟しなければなりませんでした。

「昔から、こうと決めたら譲らない子だから。」

という諦めと、

「お前だったら、何とかするんだろうから。」

という両親の信頼に後押しされて、危うげな一歩を踏み出しました。

 そうは言っても、私は「三人の子どもを育てよう。」と決心したわけではないのです。

 あったのは、

「この三人と生きていきたいな。」

「毎日の生活の中に、この三人がいてほしいな。」

という願いだけでした。

「育てる」「育て上げる」なんて立派なことはできそうになかったけれど、いつも一緒にいてお互いを支え合えたら、どんなに心強いだろうと思えたのです。

 幸い、私が就いた仕事は、四人で生活するのに十分な収入になりました。贅沢はできませんが、毎日のおやつや夕食後のアイスクリームを楽しみにできるような生活は保証してあげられました。

 今は、巣立った者、手元に残っている者と様々です。

 みんな、自分の意思で身の振り方を決めて、生活する場所を選びました。

 離れて暮らす者もそうでない者も、苦しいとき、不安なときを、身を寄せ合って乗り切った大切な仲間として、いつでも幸せを願っています。