奇跡のような軌跡

 年末になると、「ああ、今年も一年、なんとかやって来られたなぁ」と、感慨にふけってしまいます

 そんなことを毎年やっています

 こちらに来てから20回も…

 納得できない毎日から抜け出そうと決めたきっかけは、何処かから私を呼んでいる気がする声(呼ぶ声)と、たまたま見た縁起の良い夢(色のついた夢)でした

 多くの人は、それを錯覚とか勘違いとか呼ぶのでしょう

 でも、現実的じゃないと諦めるには、私の好奇心は強すぎました

 加えて、あまりにも頑固でした

 失敗にしたくない一心で、無我夢中で走った20年でした

 だって、負けず嫌いなんだもの

 そして、3人の子どもを巻き込んでまで、ここで成し遂げたかったことは、もうそろそろ終わりに近づいているのかもしれません

 ここ半年で書き続けたように、今、その“声”は、北海道から聞こえて来ています

ツルムラサキって、食べられる植物なのですね

奇跡のような軌跡

 「夢のお告げ」というようなものを、そこそこ信じています。

 これまでで一番感謝している夢は、大きなヘビが何匹も、次々に鎌首をもたげて、うねりながらこちらへ這って、近づいて来るというものでした。

 金運が上がるかな…と、喜んだのを覚えています。

 こちらに越そうと決心する前後のことで、不安だらけだった私に、根拠のない自信を与えてくれました。

 その後のことは、以前書いた通りです。(一緒に生きようと)

 思春期を迎えた息子の生活ぶりが荒れて、途方に暮れていた時には、真っ青な海に息子が沈んでいく夢を見ました。

 「危ない」「やめなさい」と必死で訴えている私の言葉も聞かずに、海に浮かんだ真っ白な流氷の上に立った息子は、氷の割れ目から一瞬のうちに沈んでいきました。

 激しく動揺しながらも、私は心のどこかで、きっと自分で這い上がって来ると信じていました。

 粋がって着ていた分厚い服が、次々に脱ぎ捨てられて、青い水面に浮いて来ました。最後にざばぁっと浮び上がった息子の手を掴んで、グイと引き上げ、温かい毛布をかけたところで目が覚めました。

 その日を境に…とはいいませんが、子どもの反抗期ですから、気づくと治まっていました。

 「信じていれば、いずれ…」と、思わせてくれた夢でした。同時に、助けを求められたら、絶対に手を掴もうと決意した夢でもあります。

 人生の節目に見るこうした夢は、決まって色鮮やかで、目が覚めても忘れることなく強く心に残っています。そして、何度も励まされてきました。

 振り返ってみると、私の色つきの夢は「お告げ」や未来予想などではなく、自分の決意を表しているのかなとも思えてきます。

 もうすぐ、2022年を迎えます。一度で良いから、富士山の初夢を見たいものだと思っています。

来春は、遠出ができますように

奇跡のような軌跡

 義父が亡くなったと知らせを受けたときは、離婚から7年経っていました。

 その間、離婚の事実は双方の両親をはじめ、親戚には一切知らせることなく、離れて暮らしてはいるものの、家族であることには変わりないと誰もが思っていた、今考えると不思議な状態でした。

 子どもたちには3年ほど前に伝えてありました。

 自分たちの親のことなので、真っ先に知らせなくてはと思いながらも、せめて思春期がひと段落してから…、などと言い訳をしながら延ばし延ばしして4年が過ぎてしまいました。

「ああ、やっぱり…。」

 そんな、あっさりとした反応に、重い荷物を下ろした気がしたものです。

 三人それぞれに感じたことは違うでしょうが、ずっと一緒に暮らしてきた私と、そうでなかった父親とが違う人生を歩んでいるのを目の当たりにしてきたのですから、大きな違和感をもつことはなかったのでしょう。

 別れた後の7年間も、私は長期休暇のたびに自分の実家だけでなく元夫の家も訪れていました。

 夫に、離婚したことを自分の両親に告げる勇気はありませんでした。

 私にもありませんでした。

 離婚して間もなく義父が倒れ、自宅で介護をする決心をした義母に追い討ちをかけるようでできませんでした。夫は、私がそうやって周囲のことを気づかって誰にも話さないことに甘えて、自分が負うべき汚名も苦悩も労力も全て私が買って出て引き受けてくれると、たかを括っていたのです。


 義父の訃報を受けた翌日、空港に向かおうとしているときに義妹から連絡が入りました。

 夫は再婚していたそうです。

 それを義父の今際の際に告げ、新しい妻を紹介したそうです。

 義母の驚きや動揺、疑問も義父の去り際という特別な場面には取るに足らない些細なことと流すしかなかったに違いありません。

 空港に向かう足が止まりかけたとき、義父の言葉が頭をよぎりました。

「上手く行かなかったら、いつでも戻って来いよ。」

 嬉しかったことを伝えていませんでした。

 一緒に暮らしていたときは、呑み友だちのようでした。頑固な人でしたが、こんな私を可愛がってくれました。

「行って、感謝の気持ちを伝えて、これからの自分の立ち位置を確認しよう。」

 そう決意して、飛行機に乗りました。


 到着先には、「疑問があっても、言わないのが礼儀」的な、何とも言えないよそよそしい空気が流れていました。

 義母や義妹たちも、「人間関係は多少複雑になったけど、大変なこの時をみんなで力を合わせて乗り切ろう!」と、暗黙の了解の決定をしたのでしょう。

 親しくしていた親戚の方たちも心配してくれましたが、こんなときに深入りした質問をする人はいませんでした。

「自分に分の悪いことは話したくない派」の夫の目論見は、見事に成功していたのです。

 なんとも言えない居心地の悪さに耐えながら、私はそんな自分の姿を子どもたちやそこにいる全員に見せること、印象付けることにしました。

 ここにはもう、私の居場所はないのです。

 私がもうここへ来ない理由を、そこにいる全ての人の心に焼き付けることで、私はまた一つ、特大の荷物を下ろすことができるのですから。


 義父の顔を見ながら、感謝の気持ちを伝えて見送りました。

 そして、帰路に就きました。

 道中、子どもたちがいつになく優しく、不器用ながらも気遣ってくれているように思えました。

アマリリスの花芽が今年も出ました