子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 子どもを叱るのは難しくて、気がつくと私は怒っている。3人の中でも、特に長男は、行動の幼さや物の管理の悪さがきっかけにとなり、さらに、黙って話を聞き続けている神妙さが私の怒りを助長させ、延々と怒られ続けることがしばしばある。

 私は、自分でも呆れるほどの勢いで、理路整然と欠点を並べ立て、

「直してくれなくちゃ困る。」と責める。

 うつむいて黙って聞いていて、時々うなずいている彼は、どっぷりと落ち込み、涙も出ない。「完膚なきまでに打ちのめされている。」とは、こういうことだろう。

 ひと通り言い終わる頃にやっと私も我に返り、長男のしょんぼりした姿に、今度は後悔が始まる。

「しまった、言い過ぎた。」

 このまま彼を突き放すわけにはいかない。どんなときにも分かっておいてもらいたいことがある。ここで、念を押しておかなければ…。

「今、おまえの悪いところをたくさん言ったけど、お母さんが嫌なのは、その悪いところだけだからね。おまえのことはいつだって大好きだから、それは何も心配しなくていいからね。」

 長男の目から、初めて涙がはらはらとこぼれ落ちる。頭をかきなでて謝りながら、

「この子の心に届いたのは、今の言葉だけだったろう。」と思う。


 案の定、その日に指摘した欠点たちは、二、三日影を潜めた後、またすぐに顔を出し始める。

 しかし、こんな私を思いやってくれる優しい気持ちは、いつだって心に留まっていて、事あるごとに助けに出て来てくれる。


 何度指摘しても直らない、長男の“悪い癖”。

 何度息子の涙を見ても、また繰り返してしまう私の“怒り癖”。

 簡単に治らないのも無理はない。「懲りない性分」は、血のせいらしい。

イレギュラーもおもしろい

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

子どもの頃のこと2004年エッセイ集より

 拾い集めた落穂を握りしめたまま顔を上げると、太陽がすっかり沈んだ西の空は済みやかな赤色に染まっていた。


 稲束を干し終えた稲架(はさ)に沿って歩き、落ちている穂を拾って、ひと握りになると十円のお駄賃がもらえた。それが貯金箱に貯まっていくのが楽しみで、秋には学校から帰るとすぐに田んぼへ向かった。

 一番上に稲を掛けるときには、大人でも脚立を使うほどの高さがある稲架。それが、全ての田んぼの端に次々とでき上がる。そこが私の、毎秋の仕事場だった。


 秋の夕暮れは、日が沈むとみるみるうちに暗くなる。ひんやりとした空気がふっと頬をかすめ、足下もよく見えないくらいに暗くなっていることに初めて気づく。ぶるっと身震いをしながら顔を上げると、そこにはいつも、夕焼け空が美しく広がっていたのだった。

 両親も祖父母も、もう近くにはいない。隣の田んぼから聞こえて来る稲刈り機の音がとても遠く感じて、今日はもうおしまいにしようと思った。

 私の手には、夢中で拾い続けた落穂がひと握りになっている。少し誇らしい気持ちでそれを見つめた。せっかく実ったのに、拾われなければ土に還るしかないのだ。ひと夏かけて育てて来たのだから、誰かのお腹を満たしてこそ、その価値があると信じていた。



 以前、記録的な冷夏で「平成の米騒動」という言葉ができた年があった。輸入米が市場に出回り、国産米を求める声が高まる中で、私の脳裏にはいつにもましてこの光景が鮮やかに蘇っていた。一粒も無駄にしたくないと思ったあの時の願いが、全ての人の心に届くような気がした。不謹慎にも、安堵の念さえ憶えたのだった。


 今、コンバインで刈り取られる稲は、もう干されることはない。稲刈りの済んだ田んぼは真っ平らで、稲架も姿を消してしまった。落穂拾いの子どもの仕事場もなくなってしまった。

 また、さまざまな教訓と対応の中で、もう“米騒動”は起こらないだろうと言われるようにもなった。

 それでもなお、私の心にはどうしても流れていかない風景がある。

 稲架の下で、落穂を握った女の子が、秋の夕暮れを心細げに見つめている。「この風景をいつまでも覚えていよう。」と決めている。

 おじいちゃん、おばあちゃんになった父母が、ひと夏かけてようやく実らせたお米の大切さと、私たちの元にたどり着くまでの道のりの尊さを、自分の子どもたちに伝えるために。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

日々のあれこれたどり着いた視点

 とても疲れる会議があります。

 話し合っても議論が進まず、ときに話題がそれてしまう。最後には時間切れで終了するしかなく、時間をかけた割には、結論が曖昧なままで、共通理解はできたのか…。

 参加者がみな経験の多い大人なのに、こんな結果が続いたときには、会議に無駄な時間を裂かれるストレスにいたたまれない気持ちになります。


 話し合いが長くなると、内容もさることながら、話し手の心理に関心が向いてしまいます。誰も口を挟む余地がないほどに、一方的に自分の考えを話し続ける人がいると、非常識ながら退屈になり、意識が話の内容以外に向かってしまうのです。

 この人は、自分のために話しているんだ。聞いている相手の反応を見ていないから、途中で意見を言いたい人、理解できずにいる人の表情に気づいていない。自分の意見の正しさをあらゆる方面から説明しようとするので、どうしても話が長くなる。

 話したという事実を作るために話して、後日、いざというときに言うのです。

「あのとき、話しました。」


 もちろん、相手のため、聞き手のために話す人もいます。

 自分が話しているときにも、参加者のリアクションをきちんと見ていて、質問がありそうだとか、理解が滞っていると感じると、話を途切らせて話の主導を相手に移すということをしてくれます。

 そうして得られた結論は、当然、共通理解がなされ、その後に支障をきたすことが圧倒的に少ないのです。


 かく言う私は、ついつい話が長くなりがちで、「簡潔に」とか、「枝葉を省いて」などと自分に言い聞かせ、戒めている毎日です。理想とする姿は見えているものの、そこに近づくには、まだまだ長い道のりだと途方に暮れてしまいます。

 当然、然るべき相手に向かって「あなたの話は長いので…。」などと指摘する勇気もありません。

 ただ、こんな風に、意識の中で分類できるようになったことで、話し合いが堂々めぐりになったときにも、憤りを感じるばかりでなく、自分のあり方を見つめ直すゆとりがもてるようになりました。