荷物を下ろした日
義父が亡くなったと知らせを受けたときは、離婚から7年経っていました。
その間、離婚の事実は双方の両親をはじめ、親戚には一切知らせることなく、離れて暮らしてはいるものの、家族であることには変わりないと誰もが思っていた、今考えると不思議な状態でした。
子どもたちには3年ほど前に伝えてありました。
自分たちの親のことなので、真っ先に知らせなくてはと思いながらも、せめて思春期がひと段落してから…、などと言い訳をしながら延ばし延ばしして4年が過ぎてしまいました。
「ああ、やっぱり…。」
そんな、あっさりとした反応に、重い荷物を下ろした気がしたものです。
三人それぞれに感じたことは違うでしょうが、ずっと一緒に暮らしてきた私と、そうでなかった父親とが違う人生を歩んでいるのを目の当たりにしてきたのですから、大きな違和感をもつことはなかったのでしょう。
別れた後の7年間も、私は長期休暇のたびに自分の実家だけでなく元夫の家も訪れていました。
夫に、離婚したことを自分の両親に告げる勇気はありませんでした。
私にもありませんでした。
離婚して間もなく義父が倒れ、自宅で介護をする決心をした義母に追い討ちをかけるようでできませんでした。夫は、私がそうやって周囲のことを気づかって誰にも話さないことに甘えて、自分が負うべき汚名も苦悩も労力も全て私が買って出て引き受けてくれると、たかを括っていたのです。
義父の訃報を受けた翌日、空港に向かおうとしているときに義妹から連絡が入りました。
夫は再婚していたそうです。
それを義父の今際の際に告げ、新しい妻を紹介したそうです。
義母の驚きや動揺、疑問も義父の去り際という特別な場面には取るに足らない些細なことと流すしかなかったに違いありません。
空港に向かう足が止まりかけたとき、義父の言葉が頭をよぎりました。
「上手く行かなかったら、いつでも戻って来いよ。」
嬉しかったことを伝えていませんでした。
一緒に暮らしていたときは、呑み友だちのようでした。頑固な人でしたが、こんな私を可愛がってくれました。
「行って、感謝の気持ちを伝えて、これからの自分の立ち位置を確認しよう。」
そう決意して、飛行機に乗りました。
到着先には、「疑問があっても、言わないのが礼儀」的な、何とも言えないよそよそしい空気が流れていました。
義母や義妹たちも、「人間関係は多少複雑になったけど、大変なこの時をみんなで力を合わせて乗り切ろう!」と、暗黙の了解の決定をしたのでしょう。
親しくしていた親戚の方たちも心配してくれましたが、こんなときに深入りした質問をする人はいませんでした。
「自分に分の悪いことは話したくない派」の夫の目論見は、見事に成功していたのです。
なんとも言えない居心地の悪さに耐えながら、私はそんな自分の姿を子どもたちやそこにいる全員に見せること、印象付けることにしました。
ここにはもう、私の居場所はないのです。
私がもうここへ来ない理由を、そこにいる全ての人の心に焼き付けることで、私はまた一つ、特大の荷物を下ろすことができるのですから。
義父の顔を見ながら、感謝の気持ちを伝えて見送りました。
そして、帰路に就きました。
道中、子どもたちがいつになく優しく、不器用ながらも気遣ってくれているように思えました。