事情を語りすぎ

日々のあれこれたどり着いた視点

 周囲を見回しても、テレビの報道番組を見ていても、なんだかみんな、自分の事情を語りすぎです。

 こんな時期ですから、何かしらの事情を抱え、折り合いをつけながら生活しているのはみんな同じです。

 その中で、「自分の事情は特別」とでも言うように、長々と話し、

「容赦してほしい。」

「配慮してほしい。」

「理解してほしい。」

「それは仕方がないですねと、承認してほしい。」

そんな言葉を口に出すことはないけれど、そう期待している人を何人も見ました。

 慎重に対応しなければならないケースはもちろんありますが、ほとんどは、大人が自分で判断して行動しているのですから、そんなに詳しく話してまで理解を得る必要がないことばかりです。

 観光地やスポーツ観戦に出かけて来た人に、報道関係者がマイクを向けます。

 決まり悪そうに答える一般市民は、それぞれの事情を語ります。

 念を押すように、文節ごとの語尾を上げて話す人は、言い訳のような印象を与えます。半疑問系を繰り返して話す人は、相手がその度に頷いてくれることで、安心したいのでしょう。

 大人なら、自分の決定にもっと自信や誇りをもっていいはずなのに。インタビューを受けたくないと、突っぱねるという選択肢だってあるのに。

 報道側も、見ている側が苦笑してしまうようなインタビューを、何のためにして、わざわざ全国に放送しているのでしょう。

 周囲に自分の事情を分かってほしいと願うのは、幼く、未熟な心理だと思うのは私だけでしょうか。

 むやみに周囲に理解を求めない。無責任な言葉に頼るより、自分の意向は自分で冷静に見極める。

 そんな「自己完結」の境地になれたなら…。

 まだやっと、そういうゴールがあることに気づいて、遠くにちらっと見たかなぁというところですが。

チングルマという高山植物。
不思議な花!と思ったら、咲き終わった後の姿でした。