子どもの頃のことたどり着いた視点

やっと涼しくなり始めた10月の夜に、北海道の実家から電話があった。祖父が亡くなった。
おどろかなかった。少しほっとしたような気持ちもした。これでやっと、苦しまなくて良くなったんだと。

夏に、容態が悪くなったとの知らせを聞いて会いに行った。病院のベッドの上で、天井を見上げたまま、誰の声にも反応しなかった。時々発作的にうめき声を上げて、宙をまさぐるように手を動かし、何かをつかもうとしていた。
誰の前でも、照れひとつ見せずに「宝物」だと自慢していた私が、すぐ脇にいて手を握っているのに、その目に映ることはなかったのだった。
大切なものを忘れ、苦痛にもがいている姿は見ていられず、そこまでして生きていなければいけないのかと思った。

夜、横になって、まだ「宝物」だった頃のことを思い出してみる。
祖父のあぐらの真ん中の窪みは私の特等席だった。ソファーに座るときも、隣にぴったりとくっついていた。当然、一緒に寝ていた。
冬の寒い日に、冷え切った布団の中で震えていると、冷たくなった私の足を引っ張って自分の太腿にくっつけて、「あったかいか。」と言った。

あの温もりがなくなってしまったのか…。
人が生きている価値って、温かいっていうことなのかな。
大切な思い出を忘れてしまった人、自分のこともできなくなった人に、それでも生きていて欲しいと願う気持ちは、その人の温もりへの愛着なのかな。

葬儀に駆けつけられず、あの温もりのなくなった体に触れることもできなかった私は、中途半端な喪失感のまま、まだ泣くこともできずにいる。

2002.10

日々のあれこれたどり着いた視点,母の一世紀

 仕事上の研修を受けていて、心を揺らされる言葉に出会いました。

 それは、「見捨てられなかった思い出」。

 そのときの講師の方が、以前先輩から聞いたという話です。


 子どもの頃、楽しみにしていた祭りの夜店に行くはずだったのに、夕方から眠り込んでしまった。目覚めたときにはすっかり遅くなっており、店も閉まっている時刻と思われ、行けずに終わった。悔しくて悲しくて、両親をはじめとした周囲の慰めや励ましを受け入れられずに、ただ泣き続けた。みんな呆れ果て、そっとしておこうということになったようだった。

 翌朝、兄が自転車の後ろに乗せて、行くはずだった神社の境内まで連れて行ってくれた。もしかしたら、まだ開いている店があるかもしれないと期待したが、そこには、片付けをしている光景が広がり、夜店はもう終わったのだと、納得するしかなかった。

 今、自分はこれを思い出して、悔しく悲しい気持ちが呼び起こされるのではない。

 自分の目で確かめさせてもらって納得できて良かった思い出、というものでもない。

 これは、「見捨てられなかった思い出」だ。兄が自分の悲しみに寄り添ってくれ、納得できるまで一緒にいてくれた、自分にとって温かく大切な思い出として記憶されている。と…。

 


 曽祖母を思い出しました。

 駄々をこねて家族を呆れさせ、感情の収め方も分からずに泣いていた私の隣に来て、黙って背中をさすっていてくれたものです。

 癇癪を起こして暴れ回った挙句に、私が送り込まれた「お仕置き部屋」から救い出してくれたのはいつも祖父でした。腕に抱かれたまま、遠くに見える電波塔の赤いライトを一緒に数えるうちに、いつの間にか気持ちが和んだものでした。

 私の不注意から間違えて捨ててしまった小さなおもちゃの部品を探して、何度も一緒にゴミを漁ってくれたのは母でした。

 これらの思い出を、こんな名前で呼ぶことができたなんて…!  

 日常の中でふとした瞬間に現れる、私が「見捨てられなかった思い出」は、こうして名をもらい、分類され、心の中での立ち位置が定まりました。

 次は私が誰かにそんな思い出を与えてあげる番なのでしょう。