日々のあれこれ歳時記

 もうじき冬至を迎えます。

「太陽の誕生日」とはよく言ったものです。

 南中高度が一番低くなる日。つまり、ここからまた高く仰ぎ見る太陽へと転じていくのです。

 でも、日の出や日の入り時刻はそれに準じていなくて、日の出が最も遅いのは、年が明けてからだと知ったのは、ずいぶん後になってからでした。

 いつの頃からか、太陽の動きが気になって仕方がなくて、新聞の太陽と月の動きの情報欄を切り抜いてノートに貼り付けたり、日の出ている時間を計算して書き込んだりということを2年間続けたことがありました。

(2年やってみたら、ほぼ同じなのだと納得できたのでやめましたが…)

 そこで得た、前向きになれる情報は、「冬至よりも半月ほど前に日没は底を打つ」ということです。

 定時に仕事を終えたのに、すでに辺りが暗くなっていると、なんだか残念な、心細い気持ちになります。

 そんな時に、「今日より明日は少し明るくなっているはず」と思うだけで元気が出ます。(単純なので…)

 今日の日没は、一番早かった12月の初めよりも、3分くらい遅くなっています。

 この休日も、日差しの暖かさを満喫します。

アナログすぎて、お恥ずかしいですが

子どもの頃のこと歳時記,母の一世紀

 子どもの頃のクリスマスツリーは、イチイの生木でした。

 12月のある日、学校から帰ると、居間の隣の部屋にそれが“ドン!”と置いてあって、姉たちと飾り付けをするのが恒例でした。

 チクチクした葉とのせめぎ合いも、部屋中に立ち込める木の匂いも、近づいてくる楽しみな時間の演出として、大歓迎していました。

 夏のある日、姉が家の裏にある私の身長程のイチイの木を指して、

「これ、去年のクリスマスツリーの木だよ。」

と言いました。

 呑気だった私は、すぐには理解できませんでした。

 雪で覆われた真冬なのに、当たり前のように生木が現れたこと。

 クリスマスが過ぎると忽然と姿を消したこと。

 ツリーの下のタライから水が染み出して、慌てて拭き掃除をしたこと…。

 考えを巡らせて、やっと合点がいきました。

 夏に木の成長を見ながら目星をつけておき、時が来たら雪の下から土ごと掘り出して、家に運び入れる。終わったら、元に戻して木を休ませる。木をローテーションしながら、毎年そんなことを繰り返していたのです。母が、ほとんど一人で!

 早くに両親を亡くした母は、兄姉たちと親戚の家で育てられ、高校へ進学するという選択肢はありませんでした。

 そのせいか、自分の能力に関してあまりにも謙虚で、子どもに「勉強しなさい」と言うこともなければ、さまざまな要求もしませんでした。

 そんな母が唯一「絶対」をつけて、念を押すように何度も言った言葉は、

「子どもとした約束は、絶対に守りなさい。」です。

 約束の言葉を交わしたかどうかに関わらず、子どもが楽しみに、期待している気持ちを決して裏切ってはいけない。子どもは素直な分、大人よりも大きく傷つくのだから…と。

 その気持ちが、毎年大変な労力を使ってクリスマスツリーを用意する、原動力にもなっていたのでしょう。

 そんな背中を目の当たりにしてきた私は、一点の迷いもなく“教え”を守る努力を続けます。

 母が可愛がってきた孫たちのためにも。

 母が、まだ会うことの叶わないひ孫のためにも。

なんだか、視線を感じたら…

子どもの頃のこと歳時記

 向かいの家では、幼なじみの大きな鯉のぼりがゆうゆうと泳いでいました。

 私は家の周りや田んぼのあぜ道を歩き回り、溶け残った雪を割ってふきのとうが顔を出すのを手伝っては、「春の精」気分を味わっていました。

 ゴールデンウィークという言葉はその頃からありましたが、土曜日は休みではなかったし、4日も祝日ではなかったので、連休を実感できたことはあまりありませんでした。

 家族は田植えの準備で忙しい時季で、出かける予定はないものだと思っていました。

 それでも、拘束されない自由な時間がたくさんあるのが嬉しくて、休みの日はこうした“散策”をしたものです。

 多分、私はこれを「春探し」と名づけていました。待ち遠しかった春が来たんだと実感したかったのです。

 肌寒い空気の中に、わずかでも日差しの温もりを感じ取ろうと、縁台に座ってじっと息を凝らしていたこともありました。


 昨今は、この頃に限りなく近いゴールデンウィークを過ごしています。

 近所の庭を眺め、公園を散歩して、思わぬ発見を未熟な腕でカメラに納めます。のどかなこの地域では、“同胞”を各所で見かけます。

 そこだけ見ていると、実に平和な世の中なのに…。

 もうすぐ、実家のある地域から、桜の便りが届くはずです。

八十八夜はもう過ぎてしまいましたが…。