子どもの頃のこと2004年エッセイ集より,母の一世紀

 前をすぐ上の姉が歩いていた。私はそのランドセルに顔を押しつけたままつかまり、泣きながらついて歩いていた。吹き荒れる風で、涙も鼻水も雪と混ざり合って顔に凍りつき、冷たさと痛さ、そして不安で涙が止まらなかった。

 ランドセルの向こうから、すぐ上の姉の大きな泣き声が聞こえていた。三人の中で一番泣き虫だった姉もきっと、ねえちゃんのランドセルに同じ格好でつかまり、やはりぐしょ濡れの顔で泣いていたのだろう。

 さらに遠くから、ねえちゃんの声が聞こえていた。先頭に立って、妹たちを励ましていたのだろうが、その声は風雪に遮られて私のところまではっきりとは届かなかった。右も左も、上も下も真っ白で、見えるのは目の前の赤いランドセルだけだった。

 学校までは1キロメートルほど。水田地帯の通学路は、風が吹くと吹きさらしになった。中でも半ば辺りにある坂道では、吹雪に地吹雪が加わって何も見えなくなることがよくあった。前が見えず立ち往生していると、あっという間に足をとられるほどの雪が積もった。

 思うように歩けないもどかしさ。それでも小さな行列が進み続けていたのは、ねえちゃんが目を凝らして前を見据え、平らな雪原に足跡をつけてくれたからだった。

 とても長く感じられた時間の末に、ふとどこからか別の声が聞こえたような気がした。次の瞬間、先頭にいたねえちゃんが、来た道を戻って駆け出したのを見た。目で追って振り返ると、そこには母がいた。そして、母に抱きついて「わぁーっ」と泣き出すねえちゃんが…。

 母は、吹雪の中に三人を送り出した後、時間を追うごとに激しさを増す風雪に、心配になって様子を見に来てくれたのだった。

 後ろで二人の妹たちが泣いている。でも、ねえちゃんは泣かなかった。

 目の前は一面真っ白で、風と雪が容赦なく吹き付ける。それでもねえちゃんは泣かなかった。

 道がどこなのかも分からなくなった雪原を、自分の責任で進まなければならない。ねえちゃんに泣いている暇などなかった。

 ねえちゃんがやっと泣けたのは、「よくがんばったね」と、頭を撫ででくれる人の腕の中で、募っていた思いは止めどなく溢れていた。

「あのときは本当に、様子を見に行って良かったよ。」

 母は今でもときどき、あの日の思い出話をする。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました


 来月、ねえちゃんの一周忌を迎えます。

 長い間離れて住んでいたので、実感する瞬間は少ないようにも感じますが、心の道しるべを一つ無くした気がして、無性に心細くなるときがあります。

子どもの頃のこと2004年エッセイ集より,母の一世紀

冬になると、母は街の木工場へ勤めに行った。
子どものころには知らされていなかったが、当時は不作が続いたり米の値段が安かったりと、我が家の生活は苦しかったのだという。

母は朝早くに出かけて行き、夕方6時過ぎのバスで帰ってきた。4時になると暗くなる北海道の冬。それまでの時間が寂しくて、学校から帰るのを少しでも遅く、待っている時間を少しでも短く、知らず知らずのうちに、そんなことばかり考えていたような気がする。
家には私を可愛がってくれる家族がいた。姉たちもいて、近所には仲のいい遊び相手もいた。でも、母のいない寂しさは異質なものだった。きっと、姉たちも同じ気持ちだったに違いない。

そんな母の「冬の勤め」が何年か続いたある年。
その日は土曜日だった。その週の月曜日から母が勤めに出ていて、最初の週末だった。帰り道ですぐ上の姉と行き会った。二人で歩いていて、家の近くまで来たときに、私が、
「今日は土曜日だから、おかあちゃんもお昼で帰って来ているかもしれないね。」
と言った。
「そうかもしれない!」
姉は急に走り出した。と、その途端に雪道に足を滑らせて、持っていた習字セットを放り投げるほどの勢いで転んでしまった。あまりにも豪快な転び方だったのが可笑しかったのと、母が待っているかもしれない期待感とで、2人でげらげらと笑いながら上機嫌で家に帰った。
しかし、母は家に戻っておらず、姉の習字セットの中で硯が割れていた。

私たちはこれを笑い話に仕立て上げ、夕方に帰ってきた母に話した。
「硯が割れるくらい慌てて帰って来たのに、おかあちゃんは帰って来ていなくて、踏んだり蹴ったりだったよねー。」
先を争って話す私と姉の言葉を、母は何も言わずに聞いていた。笑ってくれると思っていたのに、母の表情がどこか寂しげだったのを覚えている。

週明けの月曜日、いつものように少し憂鬱な気持ちで家に帰ると母がいた。そして、「木工場へはもう行かない。」と言った。もちろん嬉しかったが、戸惑いも感じた。何かあったのかな…。
あまり話し上手ではない母は、大まかないきさつを話した後で、多分一番の理由をつぶやくように言った。
「少しの金のために、大事なものを放っておきたくないし…。」
心がほっと温かくなり、これからの冬は母がいることを喜んでいいんだと思えた。


「おまえにはなにもしてやれなかったね。」
私が結婚を控えていた頃、口癖のように毎日、母はそう言った。でも、私はそのとき十分すぎるほどの宝物をもたせてもらっていたのだ。何年もかけて少しずつ積み重ねられてきた、人として、親としての温かさを。

そして今、それは私の手から、母が愛して止まない孫たちに注がれている。

日々のあれこれたどり着いた視点,母の一世紀

 仕事上の研修を受けていて、心を揺らされる言葉に出会いました。

 それは、「見捨てられなかった思い出」。

 そのときの講師の方が、以前先輩から聞いたという話です。


 子どもの頃、楽しみにしていた祭りの夜店に行くはずだったのに、夕方から眠り込んでしまった。目覚めたときにはすっかり遅くなっており、店も閉まっている時刻と思われ、行けずに終わった。悔しくて悲しくて、両親をはじめとした周囲の慰めや励ましを受け入れられずに、ただ泣き続けた。みんな呆れ果て、そっとしておこうということになったようだった。

 翌朝、兄が自転車の後ろに乗せて、行くはずだった神社の境内まで連れて行ってくれた。もしかしたら、まだ開いている店があるかもしれないと期待したが、そこには、片付けをしている光景が広がり、夜店はもう終わったのだと、納得するしかなかった。

 今、自分はこれを思い出して、悔しく悲しい気持ちが呼び起こされるのではない。

 自分の目で確かめさせてもらって納得できて良かった思い出、というものでもない。

 これは、「見捨てられなかった思い出」だ。兄が自分の悲しみに寄り添ってくれ、納得できるまで一緒にいてくれた、自分にとって温かく大切な思い出として記憶されている。と…。

 


 曽祖母を思い出しました。

 駄々をこねて家族を呆れさせ、感情の収め方も分からずに泣いていた私の隣に来て、黙って背中をさすっていてくれたものです。

 癇癪を起こして暴れ回った挙句に、私が送り込まれた「お仕置き部屋」から救い出してくれたのはいつも祖父でした。腕に抱かれたまま、遠くに見える電波塔の赤いライトを一緒に数えるうちに、いつの間にか気持ちが和んだものでした。

 私の不注意から間違えて捨ててしまった小さなおもちゃの部品を探して、何度も一緒にゴミを漁ってくれたのは母でした。

 これらの思い出を、こんな名前で呼ぶことができたなんて…!  

 日常の中でふとした瞬間に現れる、私が「見捨てられなかった思い出」は、こうして名をもらい、分類され、心の中での立ち位置が定まりました。

 次は私が誰かにそんな思い出を与えてあげる番なのでしょう。