日々のあれこれ

 今朝、何かがリセットされた

 日曜日だというのに、6時半に目が覚めた

 ベランダに飛んできていた枯れ葉を片付けた

 土曜日の恒例行事にしている掃除を、早い時間に終わらせた

 シーツを洗って一番陽の当たる場所に干した

 観葉植物に水をたっぷりとやった

 昨日の新聞の、別刷りに載ったパズルを解いた

 昨日は二度と繰り返したくない一日だった

 半日以上を病院で過ごした

 全くの予定外

 孫に会いに行く約束も果たせなかった

 健康診断に引っかかって、義務を果たす感覚で向かった再検査

 30分で終わるはずだった

 近所のクリニックで受けたが、思わしくない結果が出て大きな病院へとハシゴした

 2時間以上待って、血を採ったあと、機器を使う検査を2つも予約した

 来週と、もう一つは11月

 長い間拘束されるようで気が重くなった

 でも、ホントのところは自業自得

 週末のアルコールが美味しすぎて、ついついと量が増えた

 胆嚢の不調が続いて、医師から「取るという方法もありますよ」と言われたのに、上手に付き合っていけるからと取り合わなかった

 そんなおめでたい生活の副産物に違いない

 せっかくの週末なのに、自分のしたいことが全く出来ずに日が傾いていった

 もったいない一日だったと思うほどに落ち込んでくる

 何かのせいにしたくなる

 これが“不成就日”の実力なのか…

 こんな時って、できなかったこと、しなければならないことを数えてしまう

 早起きができたことに気を良くして、昨日の積み残しを次々とこなしていく

 どれも、それほど時間がかかることではないので、もつれた毛糸がほどけるように時間の流れが整っていく。

 今日は“一粒万倍日”らしいし!

 ちょっとしたことがきっかけで、「さあ、ここからはじまるぞ」と思えることがある

 こんな感覚、子どもの頃によくあったなぁと思う

 夏休みの初日

 カーテンを開けると雪景色だった朝

 風がひんやりして、枯れ葉の匂いがする朝もそうだった

 緊急事態宣言の解除で華やぐ街や店の報道を横目で見ながら、私の生活スタイルは、ハジケない方向にシフトしていく必要があるのだと、晴れやかな秋空を眺めながら覚悟した

ルコウソウは、可憐な野の花ですね。北海道では種をまいて世話をしても、うまく育ちませんでした。

アルバムを断捨離

 ロードオブザリングでは、邪悪の象徴だった二つの塔。

 我が家の物入れでは、決して悪ではないけれども、常に頭を悩ます種だった二つの塔。

 130cmくらいのが二つ。重さはきっと100キロ超え。

 しかし、ある日の一大決心と、継続という力が実を結び、ホビットの旅と同様に、約一年で完結の時を迎えることができました。

 (あんなに辛い旅ではありませんでした。ごめんなさい。)

 途中に夏の休暇や正月休みなどの連休もありましたが、ペースは変えませんでした。

 負担を大きくしたくない気持ちもあったのですが、何よりも、拙速に陥りたくありませんでした。なんたって、中身は大切にしたい思い出ばかりなのですから。

 始めた日、完了した日、共に手帳に記録されていました。ホントに丸一年!

 我ながら頑張りました。

 手元に残った「選ばれしもの」たちを見て思います。

 写真というのは、その場にいた者にとっては、それ自体に価値があるというよりも、その瞬間を思い出すための栞なんだな。

 その思い出を愛しいと感じる人が、必要な分だけの栞を持っていればいいんだ。

 一年間の旅は私にそんな教訓も残しました。

 アルバムの断捨離方法は、他にもいろいろあるようです。

 この一連で書いたことは、私が自分の価値観に背かないように考えた一つの方法です。迷っている、悩んでいる方の一助になれば幸いです。

ピピンとメリーを運んだ木みたい

日々のあれこれたどり着いた視点

 周囲を見回しても、テレビの報道番組を見ていても、なんだかみんな、自分の事情を語りすぎです。

 こんな時期ですから、何かしらの事情を抱え、折り合いをつけながら生活しているのはみんな同じです。

 その中で、「自分の事情は特別」とでも言うように、長々と話し、

「容赦してほしい。」

「配慮してほしい。」

「理解してほしい。」

「それは仕方がないですねと、承認してほしい。」

そんな言葉を口に出すことはないけれど、そう期待している人を何人も見ました。

 慎重に対応しなければならないケースはもちろんありますが、ほとんどは、大人が自分で判断して行動しているのですから、そんなに詳しく話してまで理解を得る必要がないことばかりです。

 観光地やスポーツ観戦に出かけて来た人に、報道関係者がマイクを向けます。

 決まり悪そうに答える一般市民は、それぞれの事情を語ります。

 念を押すように、文節ごとの語尾を上げて話す人は、言い訳のような印象を与えます。半疑問系を繰り返して話す人は、相手がその度に頷いてくれることで、安心したいのでしょう。

 大人なら、自分の決定にもっと自信や誇りをもっていいはずなのに。インタビューを受けたくないと、突っぱねるという選択肢だってあるのに。

 報道側も、見ている側が苦笑してしまうようなインタビューを、何のためにして、わざわざ全国に放送しているのでしょう。

 周囲に自分の事情を分かってほしいと願うのは、幼く、未熟な心理だと思うのは私だけでしょうか。

 むやみに周囲に理解を求めない。無責任な言葉に頼るより、自分の意向は自分で冷静に見極める。

 そんな「自己完結」の境地になれたなら…。

 まだやっと、そういうゴールがあることに気づいて、遠くにちらっと見たかなぁというところですが。

チングルマという高山植物。
不思議な花!と思ったら、咲き終わった後の姿でした。