日々のあれこれ歳時記

 頭の中に、季節の節目に思い浮かべる小さな太陽系があります

 太陽のまわりを地球だけが回っている、超シンプルなものです

 地軸が程よく傾いていて、太陽を中心に反時計回りに回りながら、北半球がよく照らされたり、照らされにくくなったりしています

 その太陽系の中で、地球が一番手前の位置に来ました

 秋分の日です

 よく言われる、

「太陽が真東から上って、真西に沈む」

「昼と夜の長さが同じ」

が当てはまらないことは、春分の日に書いたように、こちらも同じでした (関連 北面を照らす陽 )

 ここしばらく、日の出、日没のみならず、太陽の姿を見ることがかなり少なかったので、その動きへの興味がやや減少気味です

 それでも、この機会に、雲の向こうの太陽を想像しながら…

 真東や真西を通過するのはどちらも明日、24日のようです

 昼と夜を12時間ずつ分ける日は、26日〜27日と幅がありました

 明日は無理でも、26日にもなれば、節目を迎えた太陽を眺めることができるかな…

 ちなみに、26日は新月です

 月がその節目を迎えると、そのときだけ、超簡単な脳内太陽系の地球の近くに月がちょこんと現れることになっています

 なかなか便利です

レモンブライトという品種のコスモスです  黄色いコスモスが、こんなに普及していたなんて…!

日々のあれこれたどり着いた視点

 向けられたマイクに、そこそこの大人が答えている

 「悲しいです」

 悲しみの理由は、

 “玉ねぎが高い”

 “回転寿司が値上がりした”

 “欲しいものが品切れ”

 そんな、子どもみたいな…

 「悲しい」

 「悲しい」って、泣きたいくらいの精神的ダメージを受けているってこと

 カメラに向かって、全国に向けて、自分のメンタルの弱さをそんなに正直に話していいの?

 自分にとって不都合なことに対して、

 「そのせいで、自分は悲しい気持ちになった」なんて、被害者になって周囲の共感を得たいの?

 そもそも、語彙が乏しすぎ

 年齢や経験から言っても、先方の事情くらい理解できるはずなのに

 せめて、「残念です」

 余裕があるなら、「こんな状況なんだから、仕方がないですよね」くらい言いたい

 テレビ局も、そんな映像を流さないでほしい

日々のあれこれ母の一世紀

 後悔せずに済んだこと

 それは、一番上の姉との別れでした

 姉のことは、子どもの頃の出来事を以前書いたのにならって、「ねえちゃん」と表記することにします (関連 ねえちゃんが泣いたのは

 最後に一緒に過ごしたのは、2019年の夏でした

 恒例になっていた夏休みの長めの帰省  大きなイベントもなく、ただ一日を過ごして、買い物に行き、私のリクエストの夕食を作ってもらう

 退屈とも思えるそんな日々を過ごしたくて、毎年帰っていたのでした

 ねえちゃんは気難しい性格で、周囲からいつも一歩以上引かれているような存在でした  甥や姪(うちの子どもたちや、すぐ上の姉の子どもたち)をとても可愛がっていたのですが、それも上手く表現しようとしなかったので、子どもなりに、どう接していいのか分からなくて、戸惑っている姿をよく見ました

 かく言う私も、特に若い頃は、そんなねえちゃんを持て余していました  実家に戻っても、ねえちゃんと過ごす時間をあまり作らないように、せっせと遊びに出かけていた頃もありました

 しかし、年を経るとともにお互いに丸くなっていったのか、後の数年間は、上記のように、一緒に過ごす時間を大切に思えるようになっていました

 あの夏

 “明日は私が神奈川へ戻る”という日の夕食は、お寿司をテイクアウトしようという話になりました

 せっかくだから、従姉妹にも声をかけて、みんなで食べに行ってはどうかという母の提案に、ねえちゃんの表情は曇りました

「それなら私は行かないから、出かけて来ていいよ」

 瞬時の決断は、私に委ねられていました

 数日前に、時間が空いたからと、近郊の観光地へドライブに誘ってくれた従姉妹でした  感謝の気持ちはもちろんありましたが、それでも迷うことはありませんでした

「それだったら、ねえちゃんと一緒にご飯を食べたいよ」

 お寿司を一緒に買いに行って、食卓を囲む間、ねえちゃんがいつにも増して優しかったのを覚えています

 ペットボトルからお茶をグラスに注いで、私が飲みかけた缶ビールに向かって、「かんぱーい」と言いながら差し出してくれました

 誰かと比べられたときに、自分が選ばれる

 ねえちゃんは、いつだってそう望んでいたのでしょう

 私はきっと気づいていたのに、目をそらしてばかりで、気づかないふりをしていたのです

 たった一回だったけれど、一瞬の決断を間違えず、大切なものを選び取れたことが、その後の私の救いになりました

 病気の再発を誰にも言わず、余命宣告を受けたことも、自分の胸に納めたまま逝きました

 翌年、2020年の3月のはじめ

 緊急事態宣言が出て、私の仕事も影響を受け、休みが取りやすくなった頃でした

 国内の移動が気遣わしくなる前で、すぐに駆けつけることができました  それ以降は誰もが知っているとおりです

 遠くから私を呼び寄せるのに、そのピンポイントのタイミングを狙ったところも、何だかねえちゃんらしい、粋な計らいに思えてしまうのでした