電話が鳴って
12月の半ばを過ぎたある日、鳴った電話を取ると、聞いたことのない男性の声は、知らない姓を名乗りました。
「私の妻は、お宅のご主人と数ヶ月前から親しくなり、今回ご 主人が海外に行かれる際に、私と別れて同行し、そのまま一緒になると言っています。
奥さまはそれを了解しており、3人の子どもたちのことも、現在同居しておられるご主人の両親のことも、喜んで引き受けるとおっしゃっているそうですが、本当ですか。」
「……。」
突っ込みどころが多すぎて、何も言えませんでした。
夫の、調子のいい言い分。
それをまに受ける、若く浅はかな相手の奥さま。
真偽を確かめようと、未知の相手に電話をかけてきた先方の生真面目さだけが救いでした。
「そんな人間、本当にいると思いますか?」
まずは、そう言いました。
確かに、最近の夫は様子がおかしかったこと、経済的に安定しない2人の逃避行は成功しないと思われることなどを話しながら、未熟な伴侶を選んでしまった者同志、半ば友情のようなものを感じながら、今後のこちらの出方を相談しました。
話している最中の余裕とは裏腹に、電話を切った途端に身体が震え出し、ヘナヘナと座り込みました。
どうしよう…。
誰かに相談したくても、心配をかけたくないという気持ちが先行して、身内は全て候補から除かれていきました。
ようやく頭に浮かんだのは、夫が師と仰ぐほど尊敬していた先輩でした。
すぐに電話をかけましたが、家族の方が出られて、体調を崩されて入院中だとのことでした。
もはや、誰かに頼るという選択肢は消えました。
自分のことで頼りになるのは自分自身だけなんだ。
もう一つの考えが頭をもたげました。
これはチャンスかもしれない。
夫を奪われた被害者として周囲に同情されながら、大手を振ってここを逃げ出し、あの「呼ぶ声」のする方へ行けるかもしれない。
その時の私はどんな表情をしていたのでしょう。
途方に暮れていたのか。
悲痛な面持ちだったのか。
それとも、意味ありげに微笑んでいたのか…。
とりあえず、鏡を見なくて良かったと、心から思います。
結局、未熟者たちは元の鞘におさまりました。
私がこちらに来るきっかけとなった、あの電話や出来事は誰にも知られることなく、残念ながら、私は可哀想な被害者ではなく、夫と両親を置き去りにした恩知らずのように、あの家を離れたのでした。
たとえそんな汚名を着せられても構わないと思えるほどに、あの日呼んでいた声に、私は魅せられていたのです。