子どもの頃のこと歳時記

 あの人はその日も、遠くを見る目で懐かしそうに思い出話を始めた。

 この時季に山に行くと、真っ白でこんな形の花びらをした花が、雪のように咲いていたものだと。

 その指は、細長いひょうたんのような形を描いた。

「こぶしといったかなぁ。もう一度見たいものだなぁ。」

 大好きだった人の願いを叶えたくても、その花を知らなかった私は、当てもなく遠くの山を眺めた。

 たとえ見つけたとしても、腰が曲がり、杖をついたこの人が、それを見に行けるはずがないのだと、子ども心に感じていたのだが…。


 それからわずか数日後、私は目の前で雪が降りしきるように散る白い花びらを、驚きとともに見つめていた。拾い上げると、ひょうたんのような形をしていた。

 遠足で行った公園に、たくさん植えてあった木だったのだ。

 散ってきたものを受け止めたり、地面の上から汚れていないものを選びながら、夢中で集めた。喜ぶ姿を思い描くうちに、もっと、もっとと気持ちがはやり、気がつくとリュックサックがいっぱいになっていた。遠足の日に、早く家に帰りたいと思ったのは、多分そのときだけだったろう。

 家に帰って、得意になって、はい、お土産だよ。これがこぶしだよね。と差し出した。

 しかし、返って来たのは、ああ、そうだよ。これはこぶしだね。という言葉だけで、喜んでくれると思っていた人は、そのままふらりとどこかへ行ってしまった。

 その人の心が、昔と今とを行ったり来たりし始めていたことには気づいていて、黙って後ろ姿を見送るしかなかった。

 白いたくさんの花びらは、指の間からするするとすべり落ちて、庭の隅で静かに土に還っていった。


 大人になってあらためて、こぶしは山や公園だけでなく、街路樹としても見られる身近な木だと知った。

 その身近な木が、春になるたびに様々な場所で、私にこのほろ苦い思い出を呼び起こさせる。ただ、悲しかったとか、辛かったという気持ちは湧いてこない。

 そんなにも大好きだった人がいたという思い出。

 小さく、弱かったときから大切にしてもらった。

 わがままを言って困らせても、そばにいてくれた。

 あの人の前で、私はただ生きてさえいれば良かった。

 私の命は祝福されたのだと、一年に一度ちゃんと思い出せるように、あの人が印象的な思い出を用意してくれたのだと、白い花びらをを眺めながら思っている。

日々のあれこれ歳時記

思い出を文にしようとすると、ついつい冬のことが多くなってしまします。
でも、誰もが知っている通り、北海道には素晴らしい夏があります。
いつまでも肌寒くて実感が薄いけれど春もありますし、短いながらも秋もあります。
それでも、冬という季節の印象が強いのは、こちらでは体験できない寒さや、降雪への懐かしさかもしれません。

私にとって、冬は「感じ取る季節」でした。
ピリピリと痛いくらいに冷えた空気。風までも凍ったように何も動かず、静まり返っている朝の緊張感。
太陽の高度は低く、午後2時だというのに西に傾いて見えた寂しさ。
窓の外に降りしきる雪を眺めながら、ストーブの上で薬缶のお湯がしゅんしゅん鳴っているのを聞いて、家の中の暖かさに言いようのない幸せを感じた休日。

子どもの頃は、クリスマスやお正月が近づいてくる嬉しさで、家の中まで凍てつく日々が、赤や金色の宝物が近づいて来る合図のように感じていました。

今では、冷え込んだ朝に窓の外が白く見えてレースのカーテンを開けても、雪景色ということはほとんどありません。
でも、ピンと張りつめるような冷気のせいか、植物が朽ち始めた匂いのせいか、こちらに住んでいても
「冬が来るんだなぁ。」
と感じる瞬間はたくさんあり、やはり冬は「感じ取る季節」なのです。

日々のあれこれ歳時記

 初詣には二度行きました。その場合、二度目の方は初詣とは呼ばないのかもしれませんが…。

 近所に、遠方からも参拝者が来るような大きな神社があり、お札も頂いているので、そこが氏神様と言えるのでしょう。今年は、久しぶりに大吉のおみくじも頂きました。

 でも、本当に初の初詣は、いつもの散歩コースにある小さな祠でした。

 公園の一角にある私有地。傾きかけた鳥居の奥にひっそりと鎮座しています。忘れ去られているようで、節目ごとにお供物が上がっているところを見ると、誰かが大切に管理しているのでしょう。

 前を通るときにはいつも一礼します。立ち止まって手を合わせることはありませんが、素通りもしないことに決めています。


 以前、その公園の脇にある暗く寂しい坂道を、夜遅くに一人で歩いて帰らなければならないことがありました。

 不審者が出たという話の他に、いないはずの人を見たという怖い噂も多く、暗く吸い込まれるような下り坂に、意を決して進み入りました。

 ところが、いざ歩いてみると恐怖心を全く感じないのです。所々に灯っている街灯は決して明るいものではないのですが、ふんわりと気持ちを落ち着かせてくれました。

 五分ほどかけて九十九折りの坂道を下って降りたところに、その公園の入り口があります。その時に、ふといつも頭を下げている祠のことを思い出し、

「守ってもらえたのかなぁ。」と思いました。


 信仰とは縁遠いと思っていた父が、以前言ったことがありました。

 昔、暗く寂しい田舎道を歩いたときに、心細さもあり、怖くて仕方がなくなった。思わず、聞きかじっただけの念仏を唱えると、不思議に気持ちが落ち着き、無事に家に帰り着けた。


 信仰といえるほど、無心にそれを敬い続ける謙虚さはなくても、否定もせずに、ふとしたきっかけで感謝の気持ちをもてる。そんな柔軟な心が、日本人には受け継がれているのだと思います。

「今年もよろしくお願いします。」と、両方の神様に挨拶をし、穏やかに一年がスタートしました。

実りの多い一年ででありますように