湯船から、長男の声がした。
「むかーし、むかし。桃が流れてきました。」
私は洗い場で髪を洗っていた。シャンプーが目にしみるのを気にしながら、薄目を開けて声のした方を見ると、ちょうど目の高さを桃が流れて行く…。しかも、二つ…。大きい桃と、小さい桃が左から右へと…。
唖然としながら見とれていると、桃は湯船の右端で次々に沈み、ざばぁーっと二人の息子の笑顔が現れた。
思わず拍手。迫真の演技だった。しかも、積み重なった疲れをも癒す大サービスではないか!
もちろん、個性溢れる長男のアイデアで、二人はこっそり練習していたそうだった。
それから間もなく、長男は一人でお風呂に入るようになってしまった。何やら、思うところがあったらしい。
末の息子とお風呂に入っても、桃はまず流れて来ない。照れ屋さんにはちょっと荷が重いようだ。
では次の桃は、孫ができるまで待たなくてはいけないということか。もしも、おばあさんになってから待ちに待った桃が流れてきたら、お約束通り「拾って持って帰って」しまいそうだ…。
エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より
*加筆しました