日々のあれこれ導いてくれた歌

年度の初めはいつも忙しくて、気付くと「とっちらかした」生活をしている。
一つの仕事が終わらないうちに次々と新しい課題が横から差し挟まれ、そらに気を取られていると順調だった仕事までこじれてしまう。
時間はいくらあっても足りない。
集中力が続かない。気持ちがすさんでくる。

当然、生活も乱れてくる。
夕食は、スーパーのお弁当、フランチャイズ店の持ち帰り弁当、チェーン店の丼物…。そのローテーション。
どこか、いつも焦っている。
「早く、速く…。」といつも考えている。

そんな生活に嫌気がさしたときに、いつも思い出す短歌がある。
ずいぶん前に新聞の歌壇に載った。
下の句が、「ちいさきいのちは ていねいに生きる」
上の句は、はっきりとは思い出せないのだが、生まれたばかりの子が、乳を飲んで眠って…を繰り返すだけの日々の愛おしさを歌った、若いお母さんが詠んだ一首だった。

私にとって一番大切なことは何だったかな。
今、私は自分を大切にしているかな。
守ろうと思っていたものを、ちゃんと守れているかな。

仕事の量が減るわけではないけれど、その基本に立ち返ると、不思議と心に余裕がもてるようになる。
「とっちらかって」いた雑事に、冷静に優先順位をつけられるようになる。
fast foodから、slow foodに気持ちがシフトしてくる。

愛情あふれるお母さんのお子さんは、きっと健やかに育って、ずいぶん大きくなったことでしょう。
あなたが生み出した歌もまた、こうして見知らぬ人の心に残っています。
そして、きっと多くの人の心の支えになっていますよ。

マイルドセブンの丘…。もう、防風林ではなくなりました。

日々のあれこれ2004年エッセイ集より

 靴の中には秘密が隠れている。

 靴の持ち主さえも多分それに気付いていない。

 そして、それらの秘密は誰にも気付かれることなく、履き古された靴と一緒に捨てられるのが常で、知らないまま過ぎ去って行く平穏の方が、むしろ歓迎すべきなのかもしれない。


 先日、小学校の高学年になった長男の運動靴を洗った。

「自分の靴くらい自分で洗いなさい。」

と言うくせに、その仕事ぶりに満足できない私は、つい手を出してしまう。

 子どもたちが小さかった頃は、おもちゃでも洗うように気軽に洗っていたものだが、最近ではすっかり大仕事になった。

 ブラシで表面の汚れを落としてから、勇気を出して靴の中に手を突っ込んだ。水につける前に中に溜まっているゴミをかき出そうとしたが、どこから湧くのか、砂がバラバラと落ち続けてらちがあかなかった。いつも泥だらけになっている靴下から考えて、覚悟はできていたが…。


 汚れもさることながら、驚いたのはその深さだった。手首まですっぽりと入れても、つま先はまだ遠かった。

 それが何故か息子の心の奥行きに重なって、無神経にもそこに手を突っ込んでいるような気分になった。誰に見られることなく、触れられることもなかった部分…。一瞬とは言え、後ろめたさまで感じた。

 気を取り直して、残った汚れはないかとまさぐってみる。つま先の、指が当たる部分が凸凹している。

 力いっぱい踏みしめる指。

 グランドで歯を食いしばって走る横顔がよぎっていった。

 靴と中敷きの隙間に小石が挟まっていた。痛くなかったのかと呆れながらも、そんなことよりも、たった今目の前をかすめて行ったアゲハチョウを追うのが先決と、かけて行く後姿を思い浮かべ、ニヤリと笑ってしまった。


 そんなことをするうちに、気が付くとつま先がさっきよりもずっと近くなった気がした。

 最近、みるみる遠のいて見えていた息子が、少し近くに戻ったように思えたのは気のせいか。

 靴底の形が分かったところで、息子の心の中を把握できたわけではないのだけれども…。

 中のゴミをきれいにかき出したからといって、全ての環境を整えたことになるわけではないのだけれども…


 何度も水を替えて洗い、洗濯機で脱水した。干す前に形を整えようとトントンと叩いたら、またしてもパラパラと砂がこぼれ落ちた。

 子どもたちがそれぞれに歩んで、世界を築いているのだ。こうでなくちゃいけないのだろう。ただ、その広さと奥行きに、少しだけ寂しさともどかしさを感じた。

  こんな発見お手のもの!

日々のあれこれ歳時記

思い出を文にしようとすると、ついつい冬のことが多くなってしまします。
でも、誰もが知っている通り、北海道には素晴らしい夏があります。
いつまでも肌寒くて実感が薄いけれど春もありますし、短いながらも秋もあります。
それでも、冬という季節の印象が強いのは、こちらでは体験できない寒さや、降雪への懐かしさかもしれません。

私にとって、冬は「感じ取る季節」でした。
ピリピリと痛いくらいに冷えた空気。風までも凍ったように何も動かず、静まり返っている朝の緊張感。
太陽の高度は低く、午後2時だというのに西に傾いて見えた寂しさ。
窓の外に降りしきる雪を眺めながら、ストーブの上で薬缶のお湯がしゅんしゅん鳴っているのを聞いて、家の中の暖かさに言いようのない幸せを感じた休日。

子どもの頃は、クリスマスやお正月が近づいてくる嬉しさで、家の中まで凍てつく日々が、赤や金色の宝物が近づいて来る合図のように感じていました。

今では、冷え込んだ朝に窓の外が白く見えてレースのカーテンを開けても、雪景色ということはほとんどありません。
でも、ピンと張りつめるような冷気のせいか、植物が朽ち始めた匂いのせいか、こちらに住んでいても
「冬が来るんだなぁ。」
と感じる瞬間はたくさんあり、やはり冬は「感じ取る季節」なのです。