逃げ
「若者たちが、『◯◯させていただきます』というのは、媚びではないか」という内容の文を、新聞の投稿欄で読んだことがあった
それから数日後、その投稿への反応として、「謙虚なのは良いことではないですか 私は毎日『今日も生かして頂いている』と感謝しながら生活しています」という文が載った
投稿者は80代の方で、人生経験から来る謙虚な姿勢と発言には重みがある
とは言っても、問題になっている言葉は、謙虚さから出るものとはどうしても思えなかった
私も前者のように「◯◯させていただきます」を苦々しい気持ちで聞いている派で、その根底にある心理を“逃げ”だと思っている
しかも、実体験が元になっている
ずっと以前の職場で、ささやかな昼食会を開いたことがあった
年齢が上の先輩や上司もいる中、たまたまの巡り合わせで私が司会を務めた
食事が終了し、紹介や歓談などひと通りの予定を終えて、時間も頃合いなので閉式のタイミングに
そのとき、司会として「これで、昼食会を終了いたします」と、すんなり言えなかった…!
目上の面々を前に、自分が決定して“終わらせる”ことに謎の重圧を感じ、やんわりと責任の所在をぼやかしたくなった
口をついて出た言葉が「終わらせていただきます」
『私はあくまでも、皆さんにこの役をさせてもらっているだけです』『私に決定権などないのです』と言わんばかりに…
数日間、自己嫌悪に陥った
誰も異議を唱えるはずなどなかったのに
食事に行って、料理を運んできた店員さんが
「こちらの方、ハンバーグセットになります」という
まるで、「厨房でそう言われました 自分はただ持ってきただけです」とでもいうように
まさしく頼んだ料理だし、見た目だってメニューの写真とほぼ同じなんだから、文句を言う人はいないだろう
「お待たせしました ハンバーグセットです」と断言してくれた方が耳触りがいいのにな、と思う
私には、自分が決定すること、断言することからやんわりと逃げているように聞こえるこれらの言葉
他の人たちは、どんな気持ちで聞いているんだろう
最近、“たどり着いた視点”のタグをつけた文では、毒を吐きがちです
それなりに長く生きてしまった者の愚痴だと思って、大らかに読んでください
いよいよ蕾が出てきたカポックの花の成長ぶりを、懺悔のつもりでつけて添付します