まわり道
子どもの頃、私には速く走れない人の気持ちが分からなかった。頭の中で描くリズムに合わせて手足を動かすだけ。それだけで、他の子を置き去りにして走ることができた。
運動会では、毎年確実にリレーの選手に選ばれた。周囲からは当然羨ましがられたが、どうしてみんなもそうしないのかと不思議だった。
長女は小さな頃、走るのが遅かった。運動会のかけっこでは、みんなが走り出してから安心したようにスタートし、そのまま最後まで後ろについて走った。走っている間の、押し合い圧し合いが嫌なのも原因の一つだったのだが、いつもそんな調子で、リレーの選手には縁遠く、私は少しやきもきした。
その頃、まだ幼かった長男が、あらゆる運動能力を発揮して周囲を驚かせていた。今思えば、長女もそんな自分にもどかしさや悔しさを感じていたのかもしれない。
そんな長女が小学三年生になった春、
「おかあさん、私ね、運動会のリレーの選手になれた。」
学校から帰って来るなり、自分でも不思議そうに言った。
「この子もいつかは芽を出すときが来るだろう。」
そう信じて見守っていた私は、
「やっぱり、私の子だ…。」
と、大いに喜んだ。
でも、それは少し違うのだ。
この子は、速く走れない子の気持ちを知っている。思うように動かない自分の手足への憤りを知り、速く走れる子に向けられる羨望のまなざしが、決して自分には向けられない悔しさも知っている。
私のように、羨ましがっている友だちに向かって、
「本気を出せばいいのに…。」
とは言わないだろう。
まわり道の途中では、誰もが目の前の事しか見えなくて、本人も周りの人間もやきもきするが、一歩抜き出て振り返ると、かけがえのない時間だったと気付く。
「できない」という悔しさと、それと折り合いながら努力する粘り強さ。超えたときに得た自信。そして、人の痛みを思いやる優しさ。
娘はこの一連の宝物を、幼いうちに一セット手にしたのだった。
負けず嫌いの私だが、これにおいては長女にかなう気がしないといつも思っている。
エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より
*加筆しました
そんな長女も、一児の母になり、毎日の子育てを存分に楽しんでいます。
どんなときも弱者に寄って立つのは、私よりも祖母(私の母)の影響が強いように思います。