天使

子どもたちのこと2004年エッセイ集より

 天使はほんとうにいる。

 それはある日、私の耳元で囁いた。

「しんやだよ。し、ん、や。」

 はっと目が覚めた。子どもたちを寝かしつけているうちに、うとうとしたのだった。

 横になったまま、お腹の中の子の名前を考えていた。

「女の子だったら、おねえちゃんから一文字もらおう。」

「男の子だったらおにいちゃんから一文字もらおう。下に『や』のつく名前は…。」と。

 あまりにも可愛らしかったその声は、いつまでも私の耳に残り、

「男の子だったら『しんや』にしよう。」

 心の中で、そっと決めた。


 それから間もなく、私たち家族を試練が襲った。夫の交通事故。そして大きな怪我。

 付き添いと周囲への謝罪に、私は神経をすり減らした。

 妊娠が分かってから間もない、不安定期の出来事で、気がつくとつわりも止まっていた。


 定期検診が巡ってきた頃にはすっかり弱気になっていた。

「生まれて来ない方がいいのかも…。幸せにしてあげられる自信がない…。」

 超音波で映し出されるお腹の中。そこには何も見えなかった。「育たずに流れていく。」という経験は初めてではなかった。気付かれないようにそっとため息をつきながら、モニター画面から目を逸らした。

 そのとき突然、医師が明るい声で言った。

「いました、いました!こんなところに…!」

 思わず振り返ると、押しつぶされたように見える子宮の“部屋”の隅に、ふっくらとした丸い塊が、眩しいくらいに白く映し出されていた。まるで当たり前のように、既に人の形になって…。

「しんやだよ。し、ん、や。」

 耳の奥に、あの声が響いた。

 あれは名前を告げる声ではなかったんだ。

「これから起こる出来事に負けないで、きっと産んでね。」と励ましてくれていたんだ。

 体の底から勇気が溢れてくるのを感じた。


 それから半年後、天使は私たちの元に舞い降りた。

 その名にふさわしく男の子として生まれてきて、希望どおりに「しんや」という名前をもらった。


 天使は今もここにいる。

 外で足音がして、玄関の戸が開く。

「だあれ。」と、声をかけると、

「しんやだよ。し、ん、や。」と、答える。

 そのしんやは、つい先日、八本のロウソクを上手に吹き消した。

いちばん好きな登園方法…

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました