日々のあれこれたどり着いた視点

 仕事をしていると、相手は人なのですから、苦情を寄せられて、それに対応するのは使命のようなものです。

 それにしても、苦情を言う人というのは、してもらったことよりも、してもらってないことを数えがちです。そして、それが自分にとっていかに損であったかを語り続けます。

 たしかに世の中を見回すと、「得」「損」という文字が溢れていて、いい大人たちがそんな単純な基準に、いいように振り回されているのではないでしょうか。

 政府も企業も、「お得、お得」と煽ります。得をすることが善である、得をしないことや損をすることが、愚かだとでもいうように。

 ある男の子の話を聞きました。

 運動会で、数名で一組になって棒を持って走る、「台風の目」という競技をすることになり、メンバー決めをしたときのことです。

 当然、走るスピードが近い者同士でチームをつくることを基本に、戦略が立てられていきました。

 クラスには、大勢の人の前では緊張感が強くなり、ときには動けなくなってしまう子がいたそうです。当然、その子がどのチームに入るかはみんなにとって気になるところでした。

 そのとき、真っ先に「ぼくがこの子と一緒に走るよ。」と名乗りを上げたのが、前述の男の子でした。その子を慕う子が、そのチームに集まり、あっさりとメンバーが決まりました。

 練習から本番まで、その男の子は友だちを励まし続け、はじめは不安そうにしていた子も、楽しく運動会に参加できたようです。

 その男の子の50m走のタイムは9秒台で、クラスの中でも速い方だったそうです。

 世の中の動きに絶えず目を光らせて「少しでも得をしよう。」と、周囲の自分への評価に一喜一憂しながら「優越感に浸りたい。」と考えがちな今の大人たち。

 空気を全く読まずに、損だとか得だとか考える間もなく、思い立った使命感だけで、素晴らしいことをやり遂げてしまう子どもたちに、はっとさせられることはたくさんありそうです。

小さな輝きは、目をこらして見つけたい

日々のあれこれたどり着いた視点

 周囲を見回しても、テレビの報道番組を見ていても、なんだかみんな、自分の事情を語りすぎです。

 こんな時期ですから、何かしらの事情を抱え、折り合いをつけながら生活しているのはみんな同じです。

 その中で、「自分の事情は特別」とでも言うように、長々と話し、

「容赦してほしい。」

「配慮してほしい。」

「理解してほしい。」

「それは仕方がないですねと、承認してほしい。」

そんな言葉を口に出すことはないけれど、そう期待している人を何人も見ました。

 慎重に対応しなければならないケースはもちろんありますが、ほとんどは、大人が自分で判断して行動しているのですから、そんなに詳しく話してまで理解を得る必要がないことばかりです。

 観光地やスポーツ観戦に出かけて来た人に、報道関係者がマイクを向けます。

 決まり悪そうに答える一般市民は、それぞれの事情を語ります。

 念を押すように、文節ごとの語尾を上げて話す人は、言い訳のような印象を与えます。半疑問系を繰り返して話す人は、相手がその度に頷いてくれることで、安心したいのでしょう。

 大人なら、自分の決定にもっと自信や誇りをもっていいはずなのに。インタビューを受けたくないと、突っぱねるという選択肢だってあるのに。

 報道側も、見ている側が苦笑してしまうようなインタビューを、何のためにして、わざわざ全国に放送しているのでしょう。

 周囲に自分の事情を分かってほしいと願うのは、幼く、未熟な心理だと思うのは私だけでしょうか。

 むやみに周囲に理解を求めない。無責任な言葉に頼るより、自分の意向は自分で冷静に見極める。

 そんな「自己完結」の境地になれたなら…。

 まだやっと、そういうゴールがあることに気づいて、遠くにちらっと見たかなぁというところですが。

チングルマという高山植物。
不思議な花!と思ったら、咲き終わった後の姿でした。

日々のあれこれたどり着いた視点

 最近、「収納術」という言葉をよく耳にします。

 発想に感心してしまうアイデア製品や技術、見た目に可愛らしい小物など。

 自分で暮らしをコントロールして形づくるわけですから、毎日が楽しく、活力も湧いてきそうです。

 でも、この歳になると、思考は真っ直ぐそこへは向かいません。

「工夫しないと収まり切らないほどの物は持ちたくないな。」

 居間を見回します。

 殺風景でもないし、無駄な物が置かれていないとも言えませんが、気が向いたときには棚にも机にも必要な物が置けます。

 YouTubeを見て、いきなりストレッチをしようと思い立ったときに、寝転んで手足を伸ばしても困らない床スペースもあります。

 多いわけではない収納家具の中も平均して余裕があります。

 これらは、私が以前「物に振り回されない暮らしがしたい。」と強く願った時期があったことが影響しています。※

「呼ぶ声」参照

さらにそれに加えて、最近は、「そろそろ人生のたたみ方を考えておこうか。」という思いを、少しずつもち始めたのです。

 自分がいなくなった後、何人かの人の心には、良い思い出として残るのもいいな。

 でも、物理的にはできるだけ痕跡を残さないように、自然に溶け込むように消えて行きたいな。

 だとしても、体一つで生きて行くのは難しいから、捨て方や処分の仕方を考えて、物と付き合わなくちゃならないな。

 50代後半。幸い、丈夫で健康。まだ数年は現役で働けそうです。

 こんなことを考えるのは、定年を迎えてからでも良いのかもしれません。

 でも、頭も体もそこそこに動く今から準備を進めようとしている自分の計画性が、結構気に入っています。