日々のあれこれたどり着いた視点,導いてくれた歌

「捨て去る時には こうして出来るだけ 遠くへ投げ上げるものよ」

 さだまさしさんの、「檸檬」。サビの部分です。

 この歌詞に心を動かされたのは10代の頃で、別れ際に見せる、こんな思い切りの良さに、憧れのようなものを感じました。

 とは言っても、それまで持っていたものを、こんなに大胆に切り捨てられる勇気など、持てるような日が来るとは思えませんでした。

 この春、数年に一度の大きな別れがありました。

 人事異動です。

 今回は、慣れた場所や人と離れ、おそらく、知人が一人もいない場所でのスタートになります。

 名残惜しくても、寂しくても、最後には自分で決定したこと。

 大切に関係を築いてきた人たちの記憶から、お互いのことがだんだん薄まって消えていくのも、それぞれにとって必要なことのように思えます。

 何度か繰り返してきたこうした別れに、ずいぶんたくましくしてもらったんだなぁと感じています。

 感謝の気持ちを込めながら、未練を残すことなく別れを告げようと思います。去り際も、「檸檬」を見習って。

「消え去る時には こうしてあっけなく 静かに堕ちてゆくものよ」

心なしか膨らんできました。
「カポックの花が」のカテゴリーも、そろそろ更新したいものです。

日々のあれこれ歳時記

 太陽の動きが気になる時季になりました。

 明日は春分の日です。

 今年は3月21日ですが、あらためてこの日になった理由を調べてみようと思い立ちました。

 よく言われるのは、「昼と夜の長さが同じ」。

 でも、日の出が午前5時50分、日の入りが午後5時50分で、ちょうど12時間ずつになるのは、17日だったようです(横浜市)。

 では、もう一つの説、「太陽が真東から上り、真西に沈む」。

 これも、少しズレていました。

 19日に真西に沈んだ太陽が、翌日の20日に最も真東に近い位置から上るのが、一番それに相応しいものでした。(今朝、ほぼ真東から出たんだ!寝坊した自分が恨めしい…。)

 ここで、やはり日の出、日の入の時刻や位置ともにズレて設定されていた、夏至や冬至のことを思い出してみます。この2つの日の決定打は、太陽高度でした。南中したときの高度が、それぞれに最高と最低でした。(関連 太陽の誕生日 )

 「丁度半分の高さなのかな…。」と計算してみましたが、やはりこれも当てはまりませんでした。

 結局は分からずじまいで、夏至や冬至を元にして、365日を分けたのかな…と、思うことにしました。

 細かいことは一旦忘れることにして、これから秋までは、朝と夕方の太陽が家の北面をも照らすようになります。

 北極まで行くと白夜になるのですから、北の地方ほど照らされる時間が長くなります。

 北海道からも、ようやく春の気配が感じられるようになったと知らせがありました。これから始まる短い春や夏に、太陽の祝福がたくさん受けられることを願っています。

日々のあれこれたどり着いた視点

「愛」の字に 込めた想いは 時を経て

         永遠(とわ)と刹那に 分かれてゆけり

ななえ 詠

 昨今のニュースに、こんな考えが頭をよぎる人が多いのではないでしょうか。

 心が未熟なまま親になり、そのときの「ノリ」や「思いつき」で、見た目の良い文字を当てた、新鮮な響きの名前を選んだのだろうと。

 自分の身に起こっていることの原因も分からず、それが「悲しい」とか「辛い」という感情だということにも気づかない子もいたでしょう。

 この先、自分は成長して、こんなのではない未来が待っているという希望などもてるはずもなかったでしょう。

 ただ生きて、苦しんで、目を閉じてしまった小さな命に、胸が痛くなるばかりです。

 それでも、「愛」の文字を与えたその瞬間には、それぞれに決意があったと思いたいです。

 一年近くも胎内で育て、自分と同じ体温でこの世に生まれてきた命を愛おしく思うのは、生き物の本能ではないでしょうか。

 その命は、祝福されて、この世界に歓迎されて生まれてきたのだと、言葉が分るようになってから、ちゃんと伝えてあげてほしかった…。

 そのときの決意を、「永遠」へと続けている方々もたくさんいらっしゃる中、「刹那さん」への思いを中心に書いてしまったことをお許しください。