子どもの頃のこと2004年エッセイ集より,母の一世紀

 母の背に負われて橋を渡った。

 田んぼのあぜ道を歩き、用水路を越えようとしたとき、そこには幅の狭い板が渡してあるだけだった。母は先に渡ってしまい、手まねきをしていたが、私は怖くて前に進めなかった。

 母は戻って来て私を負ぶってくれた。私はぎゅっと目を閉じ、板がきしむ音に怯えて母の背にしがみついた。

 あれはまだ、小学校に上がる前だ。


 すっかり忘れていたそのことを思い出したのは、20年経ってから。自分が娘を負ぶって橋を渡ったときだった。

 二番目の子どもを産むために、実家でしばらく過ごしていた。二人で田んぼのあぜ道を散歩していて、やはり用水路を越えようとしたときだった。小さな娘は、身重の私の背中にしっかりとしがみついていた。

 しかし、私が子どもの頃に母の背の上で渡った橋はここではない。あれは、母の実家の近くの風景だ。

 母はそんな風に突然実家に戻ることがあったのだ。


 孫の私にとってさえも、祖母は厳しかった。母が何度となく傷つき泣いたことを知ったのはずっと後だった。

 思い余って就学前の私の手を引いて実家に向かう。学校に行っている姉たちのことが気がかりで、夕方にはあの家に帰らなければならないと思いながら…。

 あの頃の母は、今の私よりも若かったはずなのに、私が幼かったせいか、その苦労のせいか、ずっと落ち着いた、やや影のある印象がある。


 あのとき何も話さなかった母の背中は、その日から私の心の中で優しく揺れ続けた。そして、いつの間にか、

「お前はこんな思いはするな。」

「お前は幸せになるんだよ。」

 そう語っていたんだと思うようになった。

 背中に自分の子どもの重さと温かさを感じながら、記憶の中の橋と母の背中に、私はせき立てられた。

「何としても、幸せにならなくちゃ。」

 幸せを願ってくれる人の思いに、応えなくてはと。


 しかし、こうして一時はがむしゃらに願った「幸せ」の答えは、実はとても簡単だった。

 身の回りで起こる良いことも悪いことも、全て自分の中で小さな幸せに変えられると気づいたから。

 幸せとは、全力でつかみ取るようなものではなく、辛いときでも、傍らで子どもが無邪気に遊んでいれば、その中にさえも見出すことができるものだと分かったから。

 だから、あの頃の母もまた、自分の悲しみだけを見つめていたのでは、決してないと信じている。


 子どもたちが大きくなり、今、私の背中で揺れてくれる子はいなくなってしまった。

 でも、それぞれの心のどこかに、私の背中が揺れ続けているといいのにな…と思う。

 その背中にはいつも、

「幸せを見つけられる人になるんだよ。」

という願いを込めておいたのだから。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました

子どもの頃のこと2004年エッセイ集より,母の一世紀

 前をすぐ上の姉が歩いていた。私はそのランドセルに顔を押しつけたままつかまり、泣きながらついて歩いていた。吹き荒れる風で、涙も鼻水も雪と混ざり合って顔に凍りつき、冷たさと痛さ、そして不安で涙が止まらなかった。

 ランドセルの向こうから、すぐ上の姉の大きな泣き声が聞こえていた。三人の中で一番泣き虫だった姉もきっと、ねえちゃんのランドセルに同じ格好でつかまり、やはりぐしょ濡れの顔で泣いていたのだろう。

 さらに遠くから、ねえちゃんの声が聞こえていた。先頭に立って、妹たちを励ましていたのだろうが、その声は風雪に遮られて私のところまではっきりとは届かなかった。右も左も、上も下も真っ白で、見えるのは目の前の赤いランドセルだけだった。

 学校までは1キロメートルほど。水田地帯の通学路は、風が吹くと吹きさらしになった。中でも半ば辺りにある坂道では、吹雪に地吹雪が加わって何も見えなくなることがよくあった。前が見えず立ち往生していると、あっという間に足をとられるほどの雪が積もった。

 思うように歩けないもどかしさ。それでも小さな行列が進み続けていたのは、ねえちゃんが目を凝らして前を見据え、平らな雪原に足跡をつけてくれたからだった。

 とても長く感じられた時間の末に、ふとどこからか別の声が聞こえたような気がした。次の瞬間、先頭にいたねえちゃんが、来た道を戻って駆け出したのを見た。目で追って振り返ると、そこには母がいた。そして、母に抱きついて「わぁーっ」と泣き出すねえちゃんが…。

 母は、吹雪の中に三人を送り出した後、時間を追うごとに激しさを増す風雪に、心配になって様子を見に来てくれたのだった。

 後ろで二人の妹たちが泣いている。でも、ねえちゃんは泣かなかった。

 目の前は一面真っ白で、風と雪が容赦なく吹き付ける。それでもねえちゃんは泣かなかった。

 道がどこなのかも分からなくなった雪原を、自分の責任で進まなければならない。ねえちゃんに泣いている暇などなかった。

 ねえちゃんがやっと泣けたのは、「よくがんばったね」と、頭を撫ででくれる人の腕の中で、募っていた思いは止めどなく溢れていた。

「あのときは本当に、様子を見に行って良かったよ。」

 母は今でもときどき、あの日の思い出話をする。

エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より

*加筆しました


 来月、ねえちゃんの一周忌を迎えます。

 長い間離れて住んでいたので、実感する瞬間は少ないようにも感じますが、心の道しるべを一つ無くした気がして、無性に心細くなるときがあります。

子どもの頃のこと2004年エッセイ集より,母の一世紀

冬になると、母は街の木工場へ勤めに行った。
子どものころには知らされていなかったが、当時は不作が続いたり米の値段が安かったりと、我が家の生活は苦しかったのだという。

母は朝早くに出かけて行き、夕方6時過ぎのバスで帰ってきた。4時になると暗くなる北海道の冬。それまでの時間が寂しくて、学校から帰るのを少しでも遅く、待っている時間を少しでも短く、知らず知らずのうちに、そんなことばかり考えていたような気がする。
家には私を可愛がってくれる家族がいた。姉たちもいて、近所には仲のいい遊び相手もいた。でも、母のいない寂しさは異質なものだった。きっと、姉たちも同じ気持ちだったに違いない。

そんな母の「冬の勤め」が何年か続いたある年。
その日は土曜日だった。その週の月曜日から母が勤めに出ていて、最初の週末だった。帰り道ですぐ上の姉と行き会った。二人で歩いていて、家の近くまで来たときに、私が、
「今日は土曜日だから、おかあちゃんもお昼で帰って来ているかもしれないね。」
と言った。
「そうかもしれない!」
姉は急に走り出した。と、その途端に雪道に足を滑らせて、持っていた習字セットを放り投げるほどの勢いで転んでしまった。あまりにも豪快な転び方だったのが可笑しかったのと、母が待っているかもしれない期待感とで、2人でげらげらと笑いながら上機嫌で家に帰った。
しかし、母は家に戻っておらず、姉の習字セットの中で硯が割れていた。

私たちはこれを笑い話に仕立て上げ、夕方に帰ってきた母に話した。
「硯が割れるくらい慌てて帰って来たのに、おかあちゃんは帰って来ていなくて、踏んだり蹴ったりだったよねー。」
先を争って話す私と姉の言葉を、母は何も言わずに聞いていた。笑ってくれると思っていたのに、母の表情がどこか寂しげだったのを覚えている。

週明けの月曜日、いつものように少し憂鬱な気持ちで家に帰ると母がいた。そして、「木工場へはもう行かない。」と言った。もちろん嬉しかったが、戸惑いも感じた。何かあったのかな…。
あまり話し上手ではない母は、大まかないきさつを話した後で、多分一番の理由をつぶやくように言った。
「少しの金のために、大事なものを放っておきたくないし…。」
心がほっと温かくなり、これからの冬は母がいることを喜んでいいんだと思えた。


「おまえにはなにもしてやれなかったね。」
私が結婚を控えていた頃、口癖のように毎日、母はそう言った。でも、私はそのとき十分すぎるほどの宝物をもたせてもらっていたのだ。何年もかけて少しずつ積み重ねられてきた、人として、親としての温かさを。

そして今、それは私の手から、母が愛して止まない孫たちに注がれている。