同じ空の下母の一世紀

 この空は、やはり繋がっていました

 空港をするりと飛び立った飛行機は、何かの壁を越えるでもなく、バリアになった地帯を通り抜けるでもなく、滑らかに飛び進んだ末に、すーっと旭川空港に着陸しました

 今回はいつもの飛行ルートではなかったようで、実家や、私が子どもの頃に冒険した山々を見下ろせる位置を通過するという“特別サービス”までついていました (関連 子どもの時間はゆっくり流れる )

 実家には母が一人で住んでいます

 田畑を管理している甥がほぼ毎日顔を出していますが、夕暮れは一人で迎えます

 八人の大家族、そして、お盆やお正月には20〜30人の親戚が引っ切りなしに出入りした、いわゆる“本家”を、ほとんど一人で切り盛りしていた者の晩年としては、ホッとしながらも、寂しさの方が大きく感じられるのは無理のないことです

 私は今回、一つの決心をして帰省しました

 一年半後、今の仕事の定年を迎えたら、一度北海道に戻り、母と暮らそうと

 その時、一緒に庭いじりや野菜づくりができるように、今できることを思いつく限りやっておこうと

 そんなふうに息巻いても、出来ることは限られています

 花壇を整備して新しい花を植えられるようにしました

 庭木の枯れ枝を大胆に切り落として、光が入るようにしました  ついでに、剪定にチャレンジしてみたら、思いのほか楽しんでいる自分がいました

 放置されていた切り株を掘り起こすなど、大がかりなことをすると、さらに楽しくなってきました

蔓性の植物の根を掘り起こしたら、龍の頭みたいだったので
かっこよく撮ってみました ☺️

 こんな調子で、二週間は、あっという間に過ぎ去りました

 「あと一年半」「冬が二回」それを合言葉のように、お互いに励まし合い、周囲の人にもお願いして、後ろ髪を引かれながら空港へ向かいました

 私の倍以上も手早くパワフルに草取りをしていた母のこと  そのくらいは楽に越えられるだろうと、ポジティブに考えても良さそうなものなのにと自嘲しながら…

 帰りの飛行機も、ひとつづきの空を、何事もなく滑って行きました

 確かに繋がっている

 でも、そこには鉄の翼を乗せられるくらい密度のある大気があって、声を出してもあっという間に吸収されてしまいます

 地球の丸みが、見えていたものをどんどん地平線の向こうへ沈めてしまいます

 こんなに速い乗り物に乗っても、2時間近くかかるほど、結局は遠いんだなぁ

 身勝手に焦って、物事を前向きに考えられない私の前に

 「おかえり」が聞こえました

 電車を乗り継いで、自宅へ向かいながら、馴染みの風景に出会います

 バスを降りて、見慣れた道を歩くうちに、

「私には、まだここでしなくちゃならいないことがあるんだ」

 やっと、そう思えるようになってゆくのでした

子どもの頃のこと歳時記,母の一世紀

 大晦日です。

 たいそうな事はしていませんが、新年を迎える準備はできました。

 昔…私が子どもの頃は、お正月を前に、毎年「たいそうな事」をしていて、慌ただしかったのを覚えています。

 クリスマスを過ぎると、障子の張り替えが待っていました。主に祖母の仕事で、子どもたちが手伝いました。

 作業の初めに、古い障子を遠慮なく破ることができるという「山場」を越えてしまい、そこから先は修行でした。

 暮れが迫った頃に、納屋で餅つきをしました。餅つき機が登場する前は、杵と臼でついていました。

 父や祖父の力強かったこと!氷点下の屋外で、白い湯気をもうもうと上げながら、瞬く間に米が餅になっていきました。

 出来上がった餅は、みるみる冷えていくので母や祖母の手で、手早く丸められたり、のされたりしました。もちろん私は、出来立てをつまみ食いしました。

 まだ柔らかい餅で、「餅花」飾りもしました。「小さく、たくさん。」と言われても、後半には早く終わらせたくて、一つ一つがどんどん大きくなってしまいます。正月の間に枝が重みで下がっていくのを見て、少しだけ良心が咎めたものです。

 曽祖母は仏具磨きをしました。当然、私も手伝いました。

 曽祖母の大切な仏壇がピカピカになり、クレンザーの匂いが仏間に漂っているのも、正月の風物詩でした。

 これらの思い出は、どれも建て替え前の旧家屋が背景です。

 家を新築してからは、家の造りが変わったことや、みんな歳をとったこともあって、少しずつ縮小へと様子が変わっていきました。

 そんな中、あるとき両親が突然、注連縄を手作りし始めた年がありました。

 どんな物でも手作りするのが好きな母が、どこからか方法を聞いてきたのでしょう。

 二人で額を寄せ合い、あれこれと相談し、声をかけてタイミングを合わせながら…。

 仲の良い両親だとは思っていましたが、

  これほどまでに気が合うんだ。

  価値観が似ているんだ。

  お互いを信頼しているんだ。

と、つくづく思える姿でした。

 今の、私のささやかな年越しには、たいそうなイベントも、愛着溢れる手作りもありません。

 でも、こうやって、誇りに思える家族の中で育ったことを思い出して、幸せな気持ちになれます。この時季は、活気のあった、それぞれが元気だった姿に思いを馳せる大切な時間なのです。

 あのとき、父と母は、仲良く縄を綯っていました。捻って撚り合わせながら、どんどん注連縄の形に近づいていく藁に夢中でした。

 私は、なんだか懐かしい気持ちでそれを眺めていました。家族みんなでお正月を迎える準備していた昔が甦ったような気がしたのかもしれません。

 そして今、父と母の注連縄は、私の中で、愛しい記憶を撚り合わせながら、まだ綯われ続けています。細くなったり、また、太くなったりしながら。

 この一年、私の思い出話や、ときには愚痴に付き合ってくださったみなさん、ありがとうございました。

 どうか、良いお年をお迎えください。

仲良しのメタセコイヤ 寒くても支え合って…

子どもの頃のこと歳時記,母の一世紀

 子どもの頃のクリスマスツリーは、イチイの生木でした。

 12月のある日、学校から帰ると、居間の隣の部屋にそれが“ドン!”と置いてあって、姉たちと飾り付けをするのが恒例でした。

 チクチクした葉とのせめぎ合いも、部屋中に立ち込める木の匂いも、近づいてくる楽しみな時間の演出として、大歓迎していました。

 夏のある日、姉が家の裏にある私の身長程のイチイの木を指して、

「これ、去年のクリスマスツリーの木だよ。」

と言いました。

 呑気だった私は、すぐには理解できませんでした。

 雪で覆われた真冬なのに、当たり前のように生木が現れたこと。

 クリスマスが過ぎると忽然と姿を消したこと。

 ツリーの下のタライから水が染み出して、慌てて拭き掃除をしたこと…。

 考えを巡らせて、やっと合点がいきました。

 夏に木の成長を見ながら目星をつけておき、時が来たら雪の下から土ごと掘り出して、家に運び入れる。終わったら、元に戻して木を休ませる。木をローテーションしながら、毎年そんなことを繰り返していたのです。母が、ほとんど一人で!

 早くに両親を亡くした母は、兄姉たちと親戚の家で育てられ、高校へ進学するという選択肢はありませんでした。

 そのせいか、自分の能力に関してあまりにも謙虚で、子どもに「勉強しなさい」と言うこともなければ、さまざまな要求もしませんでした。

 そんな母が唯一「絶対」をつけて、念を押すように何度も言った言葉は、

「子どもとした約束は、絶対に守りなさい。」です。

 約束の言葉を交わしたかどうかに関わらず、子どもが楽しみに、期待している気持ちを決して裏切ってはいけない。子どもは素直な分、大人よりも大きく傷つくのだから…と。

 その気持ちが、毎年大変な労力を使ってクリスマスツリーを用意する、原動力にもなっていたのでしょう。

 そんな背中を目の当たりにしてきた私は、一点の迷いもなく“教え”を守る努力を続けます。

 母が可愛がってきた孫たちのためにも。

 母が、まだ会うことの叶わないひ孫のためにも。

なんだか、視線を感じたら…