母の背に負われて橋を渡った。
田んぼのあぜ道を歩き、用水路を越えようとしたとき、そこには幅の狭い板が渡してあるだけだった。母は先に渡ってしまい、手まねきをしていたが、私は怖くて前に進めなかった。
母は戻って来て私を負ぶってくれた。私はぎゅっと目を閉じ、板がきしむ音に怯えて母の背にしがみついた。
あれはまだ、小学校に上がる前だ。
すっかり忘れていたそのことを思い出したのは、20年経ってから。自分が娘を負ぶって橋を渡ったときだった。
二番目の子どもを産むために、実家でしばらく過ごしていた。二人で田んぼのあぜ道を散歩していて、やはり用水路を越えようとしたときだった。小さな娘は、身重の私の背中にしっかりとしがみついていた。
しかし、私が子どもの頃に母の背の上で渡った橋はここではない。あれは、母の実家の近くの風景だ。
母はそんな風に突然実家に戻ることがあったのだ。
孫の私にとってさえも、祖母は厳しかった。母が何度となく傷つき泣いたことを知ったのはずっと後だった。
思い余って就学前の私の手を引いて実家に向かう。学校に行っている姉たちのことが気がかりで、夕方にはあの家に帰らなければならないと思いながら…。
あの頃の母は、今の私よりも若かったはずなのに、私が幼かったせいか、その苦労のせいか、ずっと落ち着いた、やや影のある印象がある。
あのとき何も話さなかった母の背中は、その日から私の心の中で優しく揺れ続けた。そして、いつの間にか、
「お前はこんな思いはするな。」
「お前は幸せになるんだよ。」
そう語っていたんだと思うようになった。
背中に自分の子どもの重さと温かさを感じながら、記憶の中の橋と母の背中に、私はせき立てられた。
「何としても、幸せにならなくちゃ。」
幸せを願ってくれる人の思いに、応えなくてはと。
しかし、こうして一時はがむしゃらに願った「幸せ」の答えは、実はとても簡単だった。
身の回りで起こる良いことも悪いことも、全て自分の中で小さな幸せに変えられると気づいたから。
幸せとは、全力でつかみ取るようなものではなく、辛いときでも、傍らで子どもが無邪気に遊んでいれば、その中にさえも見出すことができるものだと分かったから。
だから、あの頃の母もまた、自分の悲しみだけを見つめていたのでは、決してないと信じている。
子どもたちが大きくなり、今、私の背中で揺れてくれる子はいなくなってしまった。
でも、それぞれの心のどこかに、私の背中が揺れ続けているといいのにな…と思う。
その背中にはいつも、
「幸せを見つけられる人になるんだよ。」
という願いを込めておいたのだから。
エッセイ集「これはきっとあなたの記憶」(2004年)より
*加筆しました